京都市上京区の西陣の堀川通沿いに慈受院というお寺が建っています。
慈受院は、観光寺院ではないので、境内に入ることができず、ただ門の前の説明書を見る程度しかできません。
こういったお寺は、多くの場合、歴史的に興味深いお寺ではなかったりします。
なので、素通りしようかと思ったのですが、説明書に「源氏物語ゆかりの地」と紹介されていたので、少しだけ立ち止まってみることにしました。
薄雲御所の名が残る
説明書によると、慈受院は、正長元年(1428年)に室町幕府4代将軍足利義持の正室の栄子が、夫の遺言により皇室の菩提を弔うために創建したのが始まりとされています。
以後、皇族、将軍家、近衛家、花山家から交互に住持が入って門跡寺院となりました。
慈受院は、曇華院、総持院と並んで通玄寺の三子院のひとつとされ竹之御所と称していました。
また、総持院は薄雲御所の名を称光天皇より賜っていました。
しかし、後に慈受院は廃絶します。
再興されたのは大正時代で、この時、縁故関係にあった総持院が両院の法灯を引き継ぐこととし、京都府に寺号を慈受院とする改称届を提出しました。
ところで、慈受院は、なぜ源氏物語ゆかりの地なのでしょうか。
室町時代に創建された慈受院が、平安時代にできた源氏物語と関係があるとは思えませんよね。
慈受院は、もともと京都御所の東に建っていました。
この場所には、平安時代、藤原道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)が建っていました。
法成寺は極楽浄土をこの世に再現したと言われるほど立派なお寺でしたが、鎌倉時代前期に火災により焼失します。
藤原道長の娘の彰子は一条天皇の中宮となり、彼女に仕えた女房に源氏物語の作者の紫式部がいました。
源氏物語に登場する主人公の光源氏のモデルは藤原道長と言われています。
つまり、慈受院が建っていた場所が道長が建てた法成寺の旧地であったことが、当院が源氏物語ゆかりの地とされる理由なんですね。
また、慈受院が再興される時、総持院の薄雲御所の名が残りましたが、これは源氏物語の中で、光源氏が藤壺中宮が亡くなった際、以下の哀悼の和歌を詠んだことが由来です。
入日さす 峰にたなびく 薄雲は もの思ふ袖に 色やまがへる
他にも慈受院には、門跡寺院であったことから、皇室ゆかりの調度品が多数残っているそうです。ただ、これらは拝観することができません。
源氏物語に興味がある方は、境内に入ることはできませんが、慈受院に訪れてみてはいかがでしょうか。