京都市右京区の太秦(うずまさ)の街中を散策していると、突如目の前に大きな石組が現れました。
これは一体何なのかと思って、石組の周囲を歩いてみると、蛇塚古墳という古墳であることがわかりました。
石室に蛇が生息していた古墳
蛇塚古墳が造られたのは、7世紀頃です。
当寺、この辺りを開発した秦氏の有力者の墓ではないかと言われています。
下の写真に写っているのは、蛇塚古墳の石室の入り口です。
石室の全長は約7メートルあります。
頑丈に石が組まれているようなので、中に入っても潰れそうには思いませんが、絶対に入ってはいけません。
まあ、柵が巡らされているので、よじ登る人はいないでしょうけどね。
ちなみに蛇塚古墳という名前は、この石室内に蛇が生息していたことが由来だそうです。
正面左側から古墳を見たのが、以下の写真です。
古墳の周りの木の刈込から、相当大きな石で組まれているのがわかると思います。
正面右側から見ると、組まれた石が巨大なものだということが、よりわかります。
さらに左後方からも写真を撮影。最後尾の石はかなり大きなものです。
これだけ大きな石を組んで作られた古墳なので、埋葬された人は相当な権力を持っていたのでしょうね。
棺を安置している玄室の床面積は、25.8平方メートルあり、その規模は、三重県高倉山、岡山県こうもり塚、奈良県石舞台古墳につぐ全国第4位とのこと。
また、本来の大きさは全長75メートルもあり、仁徳天皇陵と同じく鍵穴の形をした前方後円墳だったようです。
蛇塚古墳のことを知れば知るほど、ここに埋葬された人が誰だったのか気になってきます。
ところで、蛇塚古墳がある太秦の地名の由来をご存知でしょうか。
これについては、「春夏秋冬 京都四季めぐり(小学館)」の中で、以下のような内容が記述されています。
雄略天皇の時代、秦氏の長だった酒公(さけのきみ)は、一族の民が各地で豪族に使役されていることを悩んでいました。
それを気にかけた雄略天皇が、一族の民を酒公に与えます。
感謝した酒公は、絹などを献上し、朝廷にうず高く積み上げました。
それにより「禹豆麻佐(うずまさ)」という姓を賜り、後に太秦という字があてられ地名となりました。
絹をうず高く積み上げたということは、秦氏には相当な財力があったんでしょうね。
大きな石を組み合わせた蛇塚古墳を造ることができたのもうなずけます。
なお、蛇塚古墳の詳細については以下のページを参考にしてみてください。