常盤御前ゆかりの地・源光寺

平治元年(1159年)。

平清盛と源義朝が戦う平治の乱が起こりました。

平治の乱は、最終的に平清盛の勝利に終わり、源義朝は家臣の長田忠致(おさだただむね)の裏切りにより、この世を去りました。

また、平家は、義朝の長男の義平も捕え、六条河原で処刑しました。

他にも義朝には、たくさんの子がおり、平家はその子たちを捕えようと都とその周辺を探索します。

その中には、義朝と常盤御前の間に生まれた3人の男子も含まれていました。

1,000人の中から選ばれた美女

常盤御前は、近衛天皇の中宮の九条院に雑仕女(ぞうしめ)として仕えていました。

九条院は、藤原伊通(ふじわらのこれみち)の娘で、父の努力により中宮となることができました。

伊通は、中宮となった娘のために絶世の美女を彼女に仕えさせたいと思い、美人コンテストを開催します。

美人コンテストは、まず都から1,000人の美女を集め、その中からより美しい女性を100人選んで、さらに10人に絞り込み、最終的に1番美しい女性を優勝とするものでした。

このコンテストに優勝したのが常盤御前だったのです。

その後、常盤御前は源義朝の妻となり、今若、乙若(おとわか)、牛若という3人の男子を産みました。

逃避行の果てに平清盛のもとへ

義朝の妻となった常盤御前は、幸せな暮らしをおくっていましたが、その幸せも平治の乱で義朝が負けたことで一変します。

彼女は、平家の追手から逃れるために3人の子を連れて清水寺の御堂に隠れました。

その後、常盤御前は、京都から脱出し大和へと逃げます。

しかし、母が平家に捕えられ、拷問を受けているという知らせを受けて、母を助けるため、遂に3人の子を連れて清盛のもとに赴きました。

出頭した常盤御前は、自分の命はどうなってもいいから、3人の子を助けてくれるように清盛に訴えます。

しかし、清盛は彼女の願いを聞かず、3人の子供を処刑すると言いました。

常盤御前と清盛が対面してしばらくたったある日、源義朝の三男の頼朝が、清盛の継母の池ノ禅尼(いけのぜんに)の命乞いにより、伊豆に島流しとなることが決まりました。

この頼朝の処分が、常盤御前と3人の子の運命を変えました。

清盛は、常盤御前が彼の愛人となる代わりに3人の子の命を助けたのです。

今若と乙若は寺に預けられ、幼い牛若は、しばらくの間、常盤御前のもとで育てられた後、鞍馬山に預けられました。

成長した3人の子はどうなったのか

常盤御前の3人の子のうち、末っ子の牛若は、後に源義経となり、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたことで知られています。

2人の兄は、牛若ほど有名でなかったので、その後、どうなったのか御存じない方も多いことでしょう。

今若も乙若も歴史の本などに登場する機会が少ないので、お坊さんとなって一生を終えたのではなかいと思ってしまいますが、実は2人とも寺を抜け出して、牛若と同じように平家追討のために戦っていたのです。

今若は、阿野全成(あのぜんせい)と名乗り、治承4年(1180年)に源頼朝が伊豆で挙兵した際、彼のもとに駈けつけました。

また、乙若も義円と名乗り、治承5年に叔父の源行家とともに墨俣川で平家と戦いましたが、単騎で敵陣に突入し、戦死しています。

その後の常盤御前

清盛の愛人となった常盤御前は、1人の娘を産みました。

しかし、清盛の彼女への愛情はすぐに冷めてしまいます。

その後、常盤御前は、一条長成と再婚しましたが、彼女の残りの人生が一体どのようなものであったのかは、詳しくわかっていません。

京都市右京区に六地蔵巡りで有名な源光寺というお寺が建っています。

常盤御前

常盤御前

源光寺が建つこの地は、常盤御前が生まれた地とされています。

また、彼女が出家して隠棲した場所とも伝えられています。

境内には、常盤御前の墓もあるとのことですが、私が訪れた時には、どこにあるのかわかりませんでした。

最寄駅が京福電車の常盤駅というのも彼女と関係がありそうですね。

検索していると常盤御前について興味深いことが書かれた「ISIS本座」というWEBサイトを見つけました。

常盤御前は、自分を犠牲に3人の子供の命乞いをした母親という印象がありますが、実はそうではなかったのではないかという見解が述べられています。ぜひ、ご覧になってください。

  • ISIS本座 – 第9幕 源義朝×常盤御前×平清盛 2011年10月4日追記:左記ページ閉鎖

なお、源光寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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