平安時代末期、武士が政治の世界で活躍するきっかけを作ったのは、平清盛でした。
清盛を生んだ母の名は、祇園女御(ぎおんのにょうご)。
また、清盛には、父の忠盛の再婚相手である池禅尼(いけのぜんに)という母親もいました。
この二人の母親が、後に平家の運命を大きく変えることになります。
忠盛は清盛の本当の父親か?
平清盛は、元永元年(1118年)に平忠盛の長男として誕生しました。
しかし、清盛は、本当は忠盛の子ではないのではないかと言われています。
平忠盛は、その父正盛とともに白河上皇に仕えていました。
その頃、白河上皇には、愛人がいました。
その愛人は、後に清盛を生む祇園女御です。
彼女の素性についてはよくわかっていませんが、一説では白拍子だったとも言われています。
白拍子とは、簡単に言うと踊りを舞う身分の低い女性のことです。
当然、白河上皇とはあまりにも身分が不釣り合い。
そのことが、後々、清盛と平家の運命を変えていくことになるのです。
ある夜、白河上皇は、祇園女御のもとへ通うために忠盛を供につれて、八坂神社付近に差し掛かりました。
その夜は、雨が降っていたのですが、前方に何やら怪しい影が見えました。
そこで、上皇は、忠盛に怪しい影を討ち取ってくるように命じます。
忠盛は、「討ち取る前にまずはその正体を確かめてきます」と言って、怪しい影に近付いて行きました。
するとその影は、蓑を被った僧が灯籠に火をつけようとしていた姿だったのです。
もしも、忠盛が臆病者なら、怪しい影の正体を確認せずに僧を斬っていたかもしれません。
上皇は、この時の忠盛の冷静な判断と勇気に大変感心したそうです。
このことは、八坂神社の7不思議の一つとして今も伝えられています。
それからしばらくの後、白河上皇は、その時の忠盛の功績を評価して、祇園女御を彼に嫁がせました。
嫁がせたというと聞こえはいいですが、実際には、褒美として忠盛に与えたと言った方がいいでしょう。
もしも、祇園女御の身分が高ければ、彼女は忠盛に嫁がなかったかもしれませんね。
そして、祇園女御は、男の子を産みました。
その子が清盛です。
しかし、彼女は忠盛に嫁いで僅かの期間しか過ぎていないのに清盛を生んだことから、実は、清盛は白河上皇の子供ではないかと言われています。
もしも、これが事実で、しかも祇園女御が忠盛に嫁いでいなければ、後の平家の繁栄はなかったかもしれませんね。
また、清盛は、祇園女御ではなく、その妹の子ではないかとも言われています。
祇園女御は、生まれた年も亡くなった年もわかっていませんが、彼女は、清盛が生まれる13年前の長治2年(1105年)に今の円山公園の近くに尊勝寺阿弥陀堂(祇園寺)を建立しています。
尊勝寺阿弥陀堂を何歳で建立したのかわかりませんが、おそらく大人になってからでしょう。
そうすると清盛を生んだ時は、当時としては高齢だったと思われます。
そのため、彼女の子供ではなく妹が産んだ子を育てたのではないかとも言われています。
なお、祇園女御に関しては、紙風船というWEBサイトの下記ページで詳しく解説されていますので、ご覧になってみてください。
継母が助けた子の復讐
清盛の父忠盛には、祇園女御の他にも妻がいました。
その妻は、池禅尼と言い、清盛の継母にあたります。
この継母の情けある行動が後に平家を滅亡へと導くことになります。
清盛は、平治の乱で源義朝に勝った後、義朝の子の頼朝を捕えます。
頼朝は、当時、まだ12歳だったのですが、清盛は処刑するつもりでした。
しかし、まだ幼い頼朝を見た池禅尼が、彼の助命を清盛に嘆願します。
彼女の嘆願を断り切れなかった清盛は、頼朝の処刑を諦め、伊豆に島流しにしました。
それから約20年の歳月が過ぎ、頼朝は平家追討のために挙兵します。
そして、元暦2年(1185年)に壇ノ浦で平家は滅びました。
壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのは、源義経でしたが、義経も平治の乱の後、清盛が命を助けた義朝の子の一人でした。
平家は、清盛の登場で繁栄し清盛の情けで滅亡したと言えますが、平家の運命を変えたのは、清盛の生みの親の祇園女御と継母の池禅尼だったのではないでしょうか。