京都市伏見区の東の方に親鸞聖人が生まれた場所とされる日野誕生院があります。
この日野誕生院からさらに東の山の中に入って行くと鴨長明が方丈記を書いた場所と伝えられている長明方丈石が、ひっそりと置かれています。
世の中に嫌気をさして山奥へ
鴨長明は、河合神社の後継ぎとなる予定でした。
しかし、親族内でいろいろと揉め事があり、長明は河合神社を継ぐことができませんでした。
その後、長明は世の中に嫌気をさして元久元年(1204年)に人里離れた京都市左京区の大原に隠棲してしまいます。
この辺りの話については、以前に鴨長明の移動式住宅・河合神社の記事で紹介していますので、ご覧になってください。
長明は、建暦元年(1211年)に大原よりもさらに人の少ない伏見区の日野の山奥に移ります。
そして、その山奥で方丈記を執筆したのです。
昔と変わらず山の中
現在、長明が最初に隠棲した大原は、民家や民宿が建っており、観光地としても有名なことから、道を歩いていると地元の方や観光客の方とよくすれ違います。
長明がその後に移り住んだ伏見区の日野も現在では開発が進んでいて、たくさんの住宅が建ち並んでいます。
今も日野には、鴨長明が隠棲した庵の跡が残っているということを知って、訪れることにしてみました。
きっと、住宅街のどこかに石碑が置かれているのだろうと思って、京阪電車の六地蔵駅から歩いて、日野に向かい長明方丈石を探すことに。
日野の住宅街には、長明方丈石への案内がいたるところに立っているので、それに従って歩いて行けば、目的地に到着します。
しかし、どんなに歩いて行っても長明方丈石に辿り着く気配がありません。
でも、案内に従って進んでいるので、方角に間違いないはず。
時計を見ると長明方丈石を探し始めてから、20分以上経っています。
さらに歩き続けると遂に舗装された道が無くなり、目の前には山の中に向かう獣道のような細い道が現れました。
どうやらここからが本番のようです。
足場が悪く、しかも急な山道を無心に歩き続けます。
額にはじんわりと汗が滲みます。
呼吸も少しずつ荒くなります。
ここまで来たのだから、もう後戻りする気はありません。
そして、山奥の本当に人の姿が見えない場所に一本の木の棒が立てられているのを発見。
「方丈記庵跡探訪記念標」と書かれています。
ここまで苦労して登ってきたのに、木の棒1本だけというのには、正直がっかりしました。
とりあえず、少し休憩して戻ろうと思い何気なく上を向くと、何やら立派な石が置かれているのを発見。
これが、探し求めていた長明方丈石だったんですね。
石碑の隣には、由緒が刻まれた石が置かれていますが、すり減っていてよく読めませんが、明和9年(1772年)に建立されたもののようです。
それにしても、こんな山の奥でひっそりと暮らしていた鴨長明は、本当に世の中が嫌になったんでしょうね。
なお、長明方丈石は、京阪バス亭日野で下車し、東に20分ほど歩いた場所にあります。