上本能寺前町に立つ題目碑
京都市中京区の京都市役所がある辺りは、上本能寺前町という地名になっています。 その名からもわかるようにここは本能寺があった場所です。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が有名ですが、事件現場は、上本能寺前町から南西の四条西洞院の辺りです。 その後、再建が進み、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転しています。
京都市中京区の京都市役所がある辺りは、上本能寺前町という地名になっています。 その名からもわかるようにここは本能寺があった場所です。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が有名ですが、事件現場は、上本能寺前町から南西の四条西洞院の辺りです。 その後、再建が進み、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転しています。
京都市北区にある大徳寺は、広々とした境内を持つ臨済宗のお寺です。 境内には、一般公開されているものから通常非公開のものまで、たくさんの塔頭(たっちゅう)寺院が建っています。 大徳寺に塔頭が多く建っているのは、ここで織田信長の葬儀が行われたことと関係があります。
慶長5年(1600年)9月15日。 戦国武将が東軍と西軍に分かれて戦った関ケ原の戦いが起こりました。 勝利したのは、徳川家康率いる東軍です。 東軍を勝利に導いたのは、小早川秀秋でした。 小早川秀秋は、西軍に属していながら東軍に寝返り、陣取った松尾山から一気に駆け下って同じ西軍の大谷吉継を急襲します。 これにより、西軍は壊滅的な打撃を受け、わずか半日で天下分け目の大戦は終わりました。
8月末に護王神社に参拝した後、烏丸通を南に約15分歩き六角堂を訪れました。 六角堂は、烏丸御池のビジネス街や寺町の繁華街から近く、この辺りに来た時についでにお参りをしたくなりますね。 地元の人の憩いの場にもなっており、境内の景色は、どことなく落ち着きがあるように見えます。
8月末に京都市上京区の京都御苑にサルスベリを見に行った後、今出川通を挟んだ西側に建つ護王神社に参拝しました。 護王神社は、平安遷都に尽力した和気清麻呂(わけのきよまろ)とその姉の和気広虫(わけのひろむし)を祀っています。 京都に縁の深い祭神を祀っていることから、京都御苑を中心に京都に観光で訪れた際は、護王神社にも立ち寄りたいですね。
8月末に下御霊神社に参拝した後、北西に約5分歩き、京都御苑を訪れました。 京都御苑は、上京区に広々とした敷地を持っており、苑内では多くの植物を見ることができます。 夏から初秋にかけては、サルスベリが赤い花を咲かせることから、それを見に京都御苑を訪れた次第です。
8月末に京都市中京区の行願寺に参拝した後、寺町通を北に1分ほど歩き下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)にも参拝しました。 下御霊神社の境内にはサルスベリが植えられています。 サルスベリは赤色の花を咲かせるものをよく見ますが、下御霊神社には赤色の他に白色の花を咲かせるサルスベリもあり、毎年8月から9月にかけて楽しめます。
8月末に京都市中京区の本能寺に参拝した後、寺町通を北に約10分歩き、行願寺を訪れました。 行願寺は、地元の方に親しまれているお寺で、観光で訪れる人は比較的少ない印象があります。 都七福神めぐりの寿老人を祀っていることから、御朱印を授かりに参拝する人の姿はたまに見かけますが、境内が混雑することはほとんどありません。
8月末。 京都市中京区の本能寺に参拝しました。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれたことで有名なお寺ですが、現在の本能寺は事件現場よりも東に建っています。 寺町通の繁華街に近い本能寺ですが、普段は参拝に訪れる人が少なめです。
8月下旬。 京都府八幡市の背割堤の近くに立ち寄ったことから、宇治川と木津川の流れを眺めました。 背割堤は、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川になる三川合流地点にあります。 堤防沿いにたくさんの桜が植えられていることから、春にはたくさんの花見客で賑わいます。 背割堤が混雑するのは、桜が咲いている時期だけで、その他の時期は閑散としたものです。 特に夏に訪れる人の姿はほとんどなく、近くのさくら出会い館でサイクリングをする人たちが休憩しているくらいですね。