朝鮮通信使が宿泊した大徳寺
天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。 この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。 しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。 慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日本軍の撤退で終わりましたが、日本と朝鮮との国交は断たれたままでした。 そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。
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天正19年(1591年)に豊臣秀吉は、肥前名護屋に城を築き、ここを拠点に朝鮮に出兵しました。 この第一次朝鮮出兵は文禄の役と呼ばれており、やがて講和交渉が行われました。 しかし、交渉は決裂し、第二次朝鮮出兵(慶長の役)が行われます。 慶長の役は、豊臣秀吉の病死により、日本軍の撤退で終わりましたが、日本と朝鮮との国交は断たれたままでした。 そのため、徳川家康が、両国の国交を回復するため、朝鮮通信使を江戸に迎えることになりました。