京都市上京区の晴明神社から東に5分ほど歩いた辺りに大峰寺の跡地があります。
わざわざ大峰寺跡を見に行ったのではなく、歩いていたら、たまたまた発見した旧跡です。
京都市の説明書が置かれていたので、それを読んでみることに。
役行者のお墓?
下の写真に写っているのが、大峰寺跡です。
柵があるので、中に入ることができません。
大峰寺は、大峰殿とも呼ばれ、大和国の吉野の大峰山から名をとったそうです。
現在は狭い敷地となっていますが、昔は広大な境内だったとのこと。
大峰寺は、修験者(山伏)の道場で、以前は、多くの修験者で賑わっていたと伝わっています。
修験道と言えば、京都では左京区の聖護院(しょうごいん)が有名です。
以前に聖護院に参拝した時にいただいたお寺の案内に修験道について簡単に解説されていたので、紹介しておきます。
修験道は、役行者(えんのぎょうじゃ)が開いたのが始まりです。
ちなみに役行者の生年は634年、没年は701年と伝わっています。
修験道は、日本古来の山岳信仰、自然崇拝がその源です。修験とは、修行の体験によって人格を高め徳をあらわすことをいい、理論よりも実践が中心になっています。
心身を鍛錬することが重要という考え方なんですね。
確かに山伏は、険しい山に登り、滝に打たれたりしているイメージがあります。
その修験道を開いた役行者のお墓が、ここ大峰寺跡に残る約2メートルの宝塔だそうです。
役行者の法孫の日円のものともいわれています。
藤原妍子の墓の可能性も
大峰寺の宝塔は、三条天皇の中宮藤原妍子(ふじわらのけんし)のお墓という説もあります。
藤原妍子が亡くなった時、大峰寺の前野で火葬されたことから、彼女の火葬塚ではないかと考えられているそうです。
ちなみに藤原妍子は、藤原道長の娘で、一条天皇の中宮となった彰子(しょうし)とは姉妹になります。
平安時代は、藤原氏が権勢を振っていたので、その出身で中宮となった妍子のお墓に大きな宝塔を置いたというのもうなずける話ですね。
この地にある宝塔が、役行者のお墓なのか、藤原妍子のお墓なのか、確定したことはわかっていなくても、この周辺が大峰寺のあった場所だということは間違いなさそうです。
大峰図子(おおみねずし)町という町名が残っているのも、ここが大峰寺のあった場所だということを今に伝えているのでしょう。
何気なく歩いていても史跡に出会えるのが京都らしいですね。