平家が都を落ちた後、入京した木曽義仲は、法住寺殿を焼き打ちし、後白河法皇を五条に幽閉しました。
これによって義仲が時の権力者になったかに思えましたが、西の平家、裏切り者の叔父の源行家など、義仲にとって邪魔な存在は消えてはいませんでした。
それどころか、鎌倉の源頼朝が、弟の範頼と義経を木曽義仲討伐のために京都に向かわせていたのです。
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平家が都を落ちた後、入京した木曽義仲は、法住寺殿を焼き打ちし、後白河法皇を五条に幽閉しました。
これによって義仲が時の権力者になったかに思えましたが、西の平家、裏切り者の叔父の源行家など、義仲にとって邪魔な存在は消えてはいませんでした。
それどころか、鎌倉の源頼朝が、弟の範頼と義経を木曽義仲討伐のために京都に向かわせていたのです。
寿永2年(1183年)7月に平家が都を落ち、代わりに入京したのが木曽義仲とその叔父の源行家でした。
この時、一番喜んだのはおそらく後白河法皇だったのではないでしょうか。
なぜなら、平家は都を落ちて西国に向かうことを決定した際、後白河法皇を都から連れ出そうとしていたからです。
その計画を知った法皇は、平家の探索から逃れるためにどこかへと姿をくらまし、息を殺して危険が過ぎ去るのを待っていました。
平家が都を去り難を逃れた法皇でしたが、実はこの後、更なる問題に直面することとなります。
治承4年(1180年)4月。
後白河法皇の皇子の以仁王(もちひとおう)が、全国の源氏に平家追討の令旨(りょうじ=皇子の命令)を発しました。
この令旨によって、20年間栄華を極めた平家は滅亡へと転がり落ちていくことになります。