「 京都の歴史 」一覧

寺田屋で襲撃を受けた坂本竜馬が避難した材木小屋跡の石碑

寺田屋で襲撃を受けた坂本竜馬が避難した材木小屋跡の石碑

酒蔵がたくさん立ち並んでいることで有名な京都市伏見区。 歴史的には、幕末に様々な事件が起こった地として知られていますね。 寺田屋事件、鳥羽伏見の戦いなどは、明治維新に大きな影響を与えています。 また、伏見の寺田屋は、寺田屋事件の他に坂本竜馬がよく宿泊した船宿としても有名です。

佐々木道誉が勝持寺で催した盛大な花見

佐々木道誉が勝持寺で催した盛大な花見

貞治5年(南朝の正平21年/1366年)。 現在の京都市西京区の大原野に建つ勝持寺(しょうじじ)で盛大な花見が催されました。 この花見の主催者は佐々木道誉(ささきどうよ)。 佐々木道誉は婆娑羅大名と呼ばれていた人物で、やることなすことが常に派手でした。 婆娑羅(ばさら)とは、遠慮なく勝手にふるまう様のことで、後に傾奇者とも呼ばれるようになります。 当然、佐々木道誉が勝持寺で催した花見も婆娑羅大名らしく派手なものでした。

清水寺にある阿弖流為と母礼の顕彰碑

清水寺にある阿弖流為と母礼の顕彰碑

京都市東山区に建つ清水寺は、世界遺産に登録されていることもあって、毎年多くの旅行者や観光客が参拝する寺院となっています。 清水の舞台から眺める景色は絶景と言うにふさわしいですね。 その清水の舞台の下に顕彰碑が置かれています。 顕彰碑は、阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)を顕彰したものです。

応仁の乱で活躍した足軽骨皮道賢が陣取った稲荷山

応仁の乱で活躍した足軽骨皮道賢が陣取った稲荷山

今から550年前の応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱は、京都の街を焼きつくしました。 これまでの価値観は崩壊し、世は戦国時代へと突入。 公卿たちが都を離れて地方で暮らすようになり、各地に小京都ができるようになったのもこの頃からです。 戦国時代は、社会の価値観が崩壊し、下の者が上の者に取って代わる下剋上が流行するようになりました。 そして、下剋上を象徴するように活躍し始めたのが、足軽と呼ばれる兵士たちでした。

月読神社の押見宿祢霊社遺跡碑

月読神社の押見宿祢霊社遺跡碑

京都市西京区に建つ月読神社(つきよみじんじゃ)は、京都市内でも比較的長い歴史を持つ神社です。 創建年代は5世紀の顕宗天皇3年というのですから、京都市内で月読神社よりも古い神社を探す方が難しいくらいです。 月読神社の創建当初、神官となったのは押見宿禰(おしみのすくね)です。

池田恒興の菩提を弔うために再興された興聖寺

池田恒興の菩提を弔うために再興された興聖寺

天正10年(1582年)に起こった本能寺の変で織田信長がこの世を去りました。 信長を討ち取ったのは家臣の明智光秀でしたが、その光秀もすぐに羽柴秀吉との戦いに敗れ戦死しています。 信長の死により織田政権を誰が引き継ぐのか、家臣団の中で争いが起こります。 有力だったのは羽柴秀吉と柴田勝家でしたが、秀吉が勝家を打ち取ったことで自然と秀吉が後継者となりつつありました。 しかし、これに不服だったのが、信長の子の信雄(のぶかつ)。 彼は徳川家康を味方に着けて、秀吉と決戦することにしました。 これが、天正12年に起こった小牧長久手の戦いです。

西院の淳和院跡

西院の淳和院跡

京都市右京区の阪急電車の西院駅(さいいんえき)がある辺りは、平安時代に淳和院(じゅんないん)がありました。 淳和院は、天長10年(833年)に淳和天皇が仁明天皇(にんみょうてんのう)に譲位した後、承和7年(840年)に崩御するまで過ごした地です。

中央卸売市場第一市場は西鴻臚館跡地にある

中央卸売市場第一市場は西鴻臚館跡地にある

京都市下京区に中央卸売市場第一市場があります。 中央卸売市場第一市場は、野菜、果物、生鮮水産物、加工水産物といった生鮮食料品などを扱う市場です。 日本国内はもちろんのこと海外からの生鮮食料品も扱っている公設の市場で、適正な価格付けをして京都市民の台所に速やかに送る役割を果たしています。 この中央卸売市場第一市場が建つ地は、平安時代には西鴻臚館(にしこうろかん)がありました。

復興して10年も経たずに焼失した慶長天主堂

復興して10年も経たずに焼失した慶長天主堂

日本にキリスト教が入って来たのは戦国時代です。 その後、織田信長の庇護を受け、キリスト教が国内に広まっていきましたが、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に伴天連(バテレン)追放令を出してキリスト教を弾圧します。 しかし、秀吉の死後、徳川家康が政権を取ると再びキリスト教の布教が認められるようになりました。

山城国一揆で国人たちが寄合を開いた平等院

山城国一揆で国人たちが寄合を開いた平等院

室町時代に起こった応仁の乱は、11年間続き、京都の町を焼け野原にしました。 応仁の乱が終結した後も、全国各地で争いは続き、やがて戦国時代に突入していきます。 応仁の乱で、畠山家の家督争いに敗れた畠山義就(はたけやまよしなり)は、文明9年(1477年)に斎藤妙椿(さいとうみょうちん)とともに河内国を武力で制圧。 畠山家の家督を相続し山城守護についた畠山政長がこれに怒り、応仁の乱が終結した後も両者は争い続けることになりました。