安土桃山時代一覧

上本能寺前町に立つ題目碑

京都市中京区の京都市役所がある辺りは、上本能寺前町という地名になっています。 その名からもわかるようにここは本能寺があった場所です。 本能寺と言えば、織田信長が明智光秀に討たれた本能寺の変が有名ですが、事件現場は、上本能寺前町から南西の四条西洞院の辺りです。 その後、再建が進み、天正17年(1589年)に豊臣秀吉の命により寺町御池に移転しています。

織田信長の葬儀はなぜ大徳寺で執り行われたのか

京都市北区にある大徳寺は、広々とした境内を持つ臨済宗のお寺です。 境内には、一般公開されているものから通常非公開のものまで、たくさんの塔頭(たっちゅう)寺院が建っています。 大徳寺に塔頭が多く建っているのは、ここで織田信長の葬儀が行われたことと関係があります。

関ケ原の戦いで西軍を裏切った小早川秀秋の家臣松野重元が隠棲した黒谷

慶長5年(1600年)9月15日。 戦国武将が東軍と西軍に分かれて戦った関ケ原の戦いが起こりました。 勝利したのは、徳川家康率いる東軍です。 東軍を勝利に導いたのは、小早川秀秋でした。 小早川秀秋は、西軍に属していながら東軍に寝返り、陣取った松尾山から一気に駆け下って同じ西軍の大谷吉継を急襲します。 これにより、西軍は壊滅的な打撃を受け、わずか半日で天下分け目の大戦は終わりました。

豊臣秀吉と徳川家康の面前で肝を冷やした西笑承兌が建立した豊光寺

京都市上京区の京都御苑の北に相国寺があります。 相国寺の境内には、いくつも塔頭(たっちゅう)が建っており、その中に豊光寺というお寺があります。 豊光寺は、豊臣秀吉の追善のため、相国寺第九十二世住持の西笑承兌(せいしょうじょうたい)が、慶長3年(1598年)に創建したものです。 西笑承兌は、豊臣秀吉や徳川家康と面識があり、両者の前で肝を冷やしたことがあります。

関ケ原の戦いの前に鳥居元忠が討ち死にした伏見城

慶長5年(1600年)6月。 徳川家康は、会津の上杉景勝を討伐するために伏見城を発ちました。 これまで徳川家康は、上杉景勝に上洛を求めていましたが、上杉景勝は全く上洛しようとしません。 そこで、徳川家康は、上杉景勝が豊臣政権に対して謀反を企てているとし上杉討伐に動き出したのでした。

織田信長と関係がある京都の史跡

永禄11年(1568年)9月に上洛し、当時の政治に深く関わった織田信長。 今でも、京都には、織田信長に関係する史跡が残っています。 そこで、今回は、京都にある織田信長に関係する史跡をいくつか紹介します。

安珍・清姫の鐘が伝わる妙満寺

叡山電車の木野駅を出て南に約3分歩いたところに妙満寺という日蓮宗のお寺があります。 かつては、中京区にあった妙満寺は、昭和43年(1968年)に閑静な現在地に移転しています。 その妙満寺には、雪月花の三名園のうちの雪の庭があります。 雪の庭は拝観することができ、その際、安珍と清姫の鐘と呼ばれる道成寺(どうじょうじ)の鐘も鑑賞できます。

豊臣秀吉が造営した伏見稲荷大社の楼門

京都市伏見区の伏見稲荷大社は、近年、海外からの旅行者に最も人気がある京都の観光名所となっています。 また、商売繁盛のご利益でも有名なため、正月には、多くの初詣客で賑わいます。 そんな伏見稲荷大社を訪れたとき、ほとんどの人がくぐるのが参道に建っている楼門です。 この楼門、建立したのは、豊臣秀吉です。

大宮中立売の聚楽第址の石碑

天正13年(1585年)に関白に就任した豊臣秀吉は、その翌年の天正14年に京都に聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)の造営を開始しました。 聚楽第は、今はありませんが、かつて聚楽第があった場所には、それを示す石碑が立っています。 ただ、その石碑は、あまり目立つものではなく、気づかずに素通りしてしまう程度のものです。