古義堂跡と伊藤仁斎のお墓
二条城から堀川通を北に少し歩くと、昔ながらの和風の建物が建っています。 その建物の前には、石碑と説明書が設置されており、近くに寄って確かめてみると、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」と書かれていました。 そう、ここは江戸時代の漢学者・伊藤仁斎の住宅「古義堂」があった地です。
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二条城から堀川通を北に少し歩くと、昔ながらの和風の建物が建っています。 その建物の前には、石碑と説明書が設置されており、近くに寄って確かめてみると、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡並びに書庫」と書かれていました。 そう、ここは江戸時代の漢学者・伊藤仁斎の住宅「古義堂」があった地です。
明治維新の原動力となったのは、イギリスと清国との間に起こったアヘン戦争でした。 アヘン戦争ではイギリスが勝利し、清国はイギリスの言いなりとなります。 このままでは、日本もイギリスなどの西洋諸国に侵略されてしまうという危機感が国内で沸騰し、外国人を打ち払うべきだという主張と開国して近代化すべきだという主張がぶつかり合い、やがて明治維新を迎えました。
奈良時代に橘諸兄(たちばなのもろえ)という人物がいました。 井手左大臣とも呼ばれた公卿です。 井手とは、京都府綴喜郡井手町のことで、橘諸兄は井手と深い関係があり、今も井手町には彼の旧跡が残っています。
2月中旬に京都市伏見区の伏見桃山城に梅を見に行った時、城内に「樹霊碑」という石碑があるのに気が付きました。 以前にも、伏見桃山城を訪れているので、その時にも見ているはずなのですが記憶になかったですね。
京都市右京区の嵯峨野は、京都市内でも自然の景色が美しい地域です。 小倉山、大堰川(おおいがわ)の対岸に見える嵐山、そして竹林。 これらは嵯峨野特有の自然の景色ですね。 嵯峨野の竹林の近くに建つ野宮神社(ののみやじんじゃ)の境内も、この辺りの風景に馴染んでおり、旅行者や観光客の方にとても人気があります。
京都市北区の金閣寺は、世界遺産に登録されている寺院です。 金閣寺と言えば、金色に装飾された金閣が最も有名で、国内外から訪れる多くの観光客や旅行者を魅了します。 金色に輝く金閣は、一度見ると忘れられない美しさがありますね。 また、金閣寺は、金閣の他に茶室の夕佳亭(せっかてい)も有名です。
江戸幕府を開いたのは徳川家康ですが、幕府の基盤が安定したのは3代将軍の家光の頃とされています。 家光は2代将軍秀忠の次男だったのですが、長男が早世したため幼い頃から世継ぎに決められていました。 その徳川家光を育てたのは、乳母の春日局(かすがのつぼね)でした。
文禄5年(1596年)閏7月13日。 京都を大きな地震が襲いました。 特に伏見で被害が大きく、豊臣秀吉が築いた伏見城も大きな被害を受けました。 城内にいた中居下女が500人も亡くなったと伝えられていますから、伏見城の被害は相当なものだったのでしょう。
幕末から明治時代にかけて活躍した画家に谷口藹山(たにぐちあいざん)がいます。 藹山の生まれは越中国新川郡鉾ノ木村で、名を貞二といいました。 幼少の頃から絵が好きで、18歳で江戸に出て谷文晁のもとに入門し文齋と号しましたが、すぐに梁川星巌(やながわせいがん)のすすめで高久藹崖(たかくあいがん)の門下となって藹山と号しました。
京都市左京区の真如堂には、いくつか石碑があります。 それらの碑文を見ても、何を書いているのか全くわかりません。 でも、石碑の近くには、説明書が設置されているので、それを読むと、石碑の意味が理解できます。 本堂の南側にある小林君之碑(おばやしくんのひ)も、最初は何の石碑かまったくわからなかったのですが、お寺が用意している説明書のおかげでその内容がわかりました。