二条城の北にあった京都所司代上屋敷

関ヶ原の戦い後、徳川家によって京都所司代が設置されました。

京都所司代は、江戸幕府が皇室・公家の監視、京都諸役人の統率、京都町方の取締り、近畿8ヶ国の訴訟処理、西国33ヶ国の大名の動静監視などの強い権限が与えられており、老中に次ぐ最重要役職です。

その京都所司代の上屋敷は、現在の二条城の北側にありました。

京都所司代跡の石碑

下の写真に写っているのが、京都所司代跡を示す石碑です。

京都所司代跡

京都所司代跡

初代の所司代には、奥平信昌が任じられ、その後、板倉勝重・重宗父子が歴任し、幕末までに58人が就任しています。

京都所司代の活躍は、江戸時代初期の豊臣家の監視や幕末の動乱期の治安維持が有名なところですね。

関ヶ原の戦いで西軍に味方し敗北した長宗我部盛親(ちょうそかべもりちか)は、京都所司代の監視下に置かれましたが、うまく板倉勝重の目をくらまして京都を脱出し、大坂の陣で活躍しました。

こんな話を聞くと、所司代は飾り物かと思ってしまいますが、3代目の板倉重宗は京都市政の根本法規を制定した名所司代と言われています。

幕末には京都守護職の下に置かれる

幕末、井伊直弼が大老を勤めていた頃、京都所司代に就任したのは酒井忠義でした。

酒井忠義は、安政の大獄で梅田雲浜や橋本左内を捕縛した時の所司代として知られています。

また、この頃から、京都は不逞浪士の天誅事件が相次ぎ、治安が悪化していきました。

幕府は、それに対処するために文久2年(1862年)に京都守護職を設置し、所司代は守護職の下に置かれることになります。

京都守護職設置後に所司代が関わった大きな事件には、八月十八日の政変があります。

この時の所司代は淀藩主の稲葉正邦で、守護職と協力して長州藩を京都から追い落とすことに成功しました。

さらに稲葉正邦は、その後老中に就任し、第1次長州征伐の指揮もとっています。

稲葉正邦の後に就任した所司代は、桑名藩主の松平定敬(まつだいらさだあき)でした。

松平定敬は、守護職の松平容保(まつだいらかたもり)の弟です。

兄弟そろって幕末の京都の治安維持にあたりましたが、王政復古により所司代は廃止され、松平定敬は最後の所司代となりました。

松平定敬は、鳥羽伏見の戦いの直後、大坂城から最後の将軍徳川慶喜や松平容保とともに部下を置き去りにして江戸に帰ったことで、悪い印象が残っていますね。

しかし、江戸に逃げ帰った松平定敬は、その後、北越、会津、函館と転戦しています。

元待賢小学校の校舎が残る

明治3年(1870年)に京都所司代上屋敷の跡地には、わが国最初の中学校である京都府立京都第一中学校が建てられました。

現在も、学校の校舎が残っていますが、これは明治39年に大黒町から移ってきた待賢小学校のものです。

でも、待賢小学校も平成10年(1998年)に出水小学校と統合され二条城北小学校となり、校舎だけが残っています。

京都所司代跡の石碑の近くには、「明治天皇行幸所京都府中學阯」と刻まれた石碑もあります。

明治天皇行幸所京都府中學阯

明治天皇行幸所京都府中學阯

この石碑は、明治天皇が明治5年に伊勢・京都などへ行幸した際にこの地に滞在し、京都市中学校の授業を視察したことを示すものです。

明治天皇が視察した中学校が使われていないのは、何だか寂しく感じますね。

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