伊達政宗の伏見上屋敷跡に建つ海宝寺

10月上旬に京都市伏見区の海宝寺に参拝してきました。

海宝寺に参拝したのは今回が初めてです。

過去に訪れようとしたことがあるのですが、道に迷って途中で引き返したことが何度かあります。

でも、今回は迷うことなく、と言うか、地図を見ながら歩いていると、思っていた場所とは違うところで海宝寺を発見しました。

モッコクと松

海宝寺は、近鉄丹波橋駅、または京阪電車の丹波橋駅から東に10分ほど歩いた辺りに建っています。

民家を抜けて行くので、これといった目印がありません。

それが、迷う理由なのでしょうね。

山門の前に到着。

山門

山門

山門には、「普茶大本山 海宝寺」と書かれていました。

普茶大本山 開祖道場

普茶大本山 開祖道場

普茶料理と言えば、黄檗宗。

もちろん、海宝寺も黄檗宗のお寺です。

山門をくぐると正面に本堂が建っています。

本堂

本堂

本堂の前には立派な松が植えられていますね。

それでは、本堂にお参りです。

海宝寺の創建は享保年間(1716-1736年)です。

江戸時代中期の創建なので、京都市内では、それほど古いお寺ではありません。

本堂の左側にはモッコクが植えられていました。

モッコク

モッコク

このモッコクは、寛永3年(1626年)に伊達政宗が植えたものと伝えられています。

伊達政宗は仙台の大名なのにどうして京都の伏見に彼の手植えのモッコクがあるのでしょうか。

その理由は、海宝寺が建つ地に伊達政宗の伏見上屋敷があったからです。

伊達政宗は、豊臣秀吉の小田原征伐の際に秀吉の臣下になりました。

そして、文禄4年(1595年)に秀吉にこの地を与えられて、屋敷を建て、多くの重臣やその妻子などを住まわせました。

常時1,000人以上が住み、一帯は伊達町と呼ばれていたというのですから、大きな屋敷だったのでしょうね。

政宗自身も慶長4年(1599年)ころまで、ここに住んでいたそうです。

また、慶長6年に上洛した時も約1年間を伏見上屋敷で過ごしています。

現在、海宝寺がある地域は桃山町正宗という地名になっています。

その地名から、ここが伊達政宗ゆかりの地であることが推測できますね。

ちなみに伊達政宗の伏見屋敷は、ここから南西のほど違い場所と深草にも下屋敷がありました。

その付近にも、深草東伊達町と深草西伊達町の地名が残っています。

こちらは、正宗の木斛(モッコク)の次世代樹です。

小さなモッコク

小さなモッコク

まだまだ背が低く小さいですね。

本堂の後ろには庫裏(くり)が建っています。

その前には、きれいに手入れされた立派な松が植えられています。

松と庫裏

松と庫裏

この松を見ていると、いかにも戦国大名の屋敷跡といった雰囲気を感じます。

松の後ろの庫裏は、百貨店大丸の前身である大文字屋の下村彦右衛門正啓(しもむらひこえもんしょうけい)が萬福寺13代の竺庵禅師に帰依して自らの屋敷を移築したものです。

庫裏には、「若冲筆投げの間」と呼ばれる部屋があります。

その部屋には、江戸時代の画家伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)が描いた「群鶏図」の障壁画があるそうですが、若冲は、この絵を描き終えた後、筆を執らなかったことから、若冲筆投げの間と称されるようになったとか。

境内の隅には、お稲荷さんを祀った鎮守社もありました。

鎮守社

鎮守社

商売繁盛を祈願しておきましょう。

そろそろ、海宝寺から出ることにします。

参道と山門

参道と山門

私が訪れた時は、他に誰もおらず静かにお参りできましたよ。

おそらく、いつ来ても静かなお寺なのだと思います。

なお、海宝寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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