山城国一揆で国人たちが寄合を開いた平等院

室町時代に起こった応仁の乱は、11年間続き、京都の町を焼け野原にしました。

応仁の乱が終結した後も、全国各地で争いは続き、やがて戦国時代に突入していきます。

応仁の乱で、畠山家の家督争いに敗れた畠山義就(はたけやまよしなり)は、文明9年(1477年)に斎藤妙椿(さいとうみょうちん)とともに河内国を武力で制圧。

畠山家の家督を相続し山城守護についた畠山政長がこれに怒り、応仁の乱が終結した後も両者は争い続けることになりました。

国人たちが畠山家に要求を突き付ける

河内国を占領した義就は、さらに大和国や南山城にも侵略し始めました。

当然、政長も黙ってはいられません。

両者の戦いは長期化し、その間、住民たちは城や砦を築くために肉体労働をさせられたり、重税を課せられたりしました。

時には、自分たちが住んでいるところが戦場になることもあり、家は焼かれ、田畑は荒らされ、人々は生活の基盤を失い始めます。

文明17年(1485年)12月。

畠山家の内乱にうんざりしていた山城の国人たちが遂に起ち上がりました。

彼らは寄合を開き、畠山政長と義就に以下の要求を突き付けたのです。

  • 自今以後、両畠山方は国中に入るべからず
  • 本所領供、各元の如くたるべし
  • 新関、一切立つべからず

内容は、両畠山軍は今後南山城に入って来ないこと、領地の支配権は寺社や荘園領主に認めること、新しく関所を作ってはならないということです。

国人たちは、両畠山軍を南山城から撤退させることに成功します。

これが山城国一揆です。

一揆の後、国人たちは自分たちの国のことを惣国と呼ぶようになりました。

平等院での集会

山城国一揆の後、国人たちは宇治市の平等院で集会を開きました。

平等院

平等院

この集会では、惣国の細かい規則が作られます。

その規則は国中掟法と呼ばれています。

平等院が山城の国人に寄合の場を提供したのは、平等院にとっても領地の支配権を維持できるなどの何らかの利点があったからでしょう。

畠山軍を追い出した惣国でしたが、その後の運営はあまりうまくいかなかったようです。

国人同士の対立も起こり、仲間割れしているところを武士たちにつけ込まれ、古市澄胤(ふるいちちょういん)に鎮圧されてしまいました。

山城国一揆で国人たちが寄合を開いた平等院は、10円玉にも描かれている鳳凰堂が有名です。

世界遺産にも登録されているので、外国人旅行者の参拝も多いです。

落ち着きのある境内を歩いていると、ここで一揆の集会が行われたことを想像できませんね。

なお、平等院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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