豊臣秀吉が最後に築城した伏見城

戦国時代を終わらせ天下を統一した豊臣秀吉は、その生涯で多くの城を築きました。

一夜で築いた墨俣城や石山本願寺の跡に築いた大坂城など、秀吉が築いた城は、挿話も含めて有名なものが多いですね。

その豊臣秀吉が、生涯最後に築いたのが伏見城でした。

隠居目的で築いた伏見城

豊臣秀吉が大坂城を築いたのは天正11年(1583年)、京都市中に大邸宅の聚楽第を完成させたのが天正15年です。

天下を統一した秀吉にとっては、大坂城と聚楽第があれば十分だと思うのですが、彼は、天正20年に伏見の指月にも城を築きました。

これが伏見城です。

秀吉が伏見城を築城したのは、関白職を甥の秀次に譲り、自らが隠居するためだったと伝えられています。

しかし、指月に築かれた伏見城は、文禄5年(1596年)に地震により倒壊しました。

地震後、秀吉はすぐに伏見城の再建を始めます。

場所は、以前の指月ではなく木幡山で、ここが秀吉が最期を迎える城となりました。

関ヶ原の戦い前に炎上

秀吉亡き後、天下を狙い始めた徳川家康は、秀吉の側近であった石田三成を排除するために動き出します。

そして、関ヶ原の戦いで石田三成に勝利した家康は江戸幕府を開きました。

関ヶ原の戦いの直前に伏見城は炎上します。

その時、伏見城には徳川家康の家臣の鳥居元忠が立て籠もり、西軍との壮絶な戦いの後、城を枕に自害しました。

城の床には、鳥居元忠らの血がべったりと付着していましたが、その床は後に京都各地のお寺の天井に使われることになります。

関ヶ原の戦い後、伏見城は徳川家康の手により修復されます。

しかし、泰平の世の到来で誰も使わなくなった伏見城は必要性がなくなり、元和9年(1623年)に3代将軍家光の拝任式の後、取り壊されました。

現在、京都市伏見区には伏見桃山城が建っています。

伏見桃山城

伏見桃山城

伏見桃山城は、20世紀に建てられたものなので、豊臣秀吉の築いた伏見城とは別物です。

現在の伏見桃山城は公園となっていて誰でも城内に入れます。

城内はとても静かで、お年寄りの隠居所にふさわしいですね。

きっと、秀吉も、現在の伏見桃山城のような静けさを望んで伏見城を築いたのでしょう。

織田信長から豊臣秀吉までの時代を安土桃山時代といいます。

その由来は、両者の居城があった場所にちなみます。

信長の居城は安土城だったので安土が入るのはわかりますが、秀吉の居城は伏見城だったのですから、安土伏見時代となりそうです。

でも、伏見ではなく桃山となっているのは、伏見城があった山の上に桃の木が群生し桃山と呼ばれていたからです。

伏見時代よりも桃山時代の方が、戦乱が終わった後に世の中が落ち着きを取り戻した感じが、言葉の響きに表れているような気がしますね。