ビジネス街になっている与謝蕪村の終焉の地

現在、京都市下京区はビジネス街となっています。

京都駅があったり、金融機関が建ち並ぶ四条烏丸があったりと、京都市の経済を支えている地域と言っても過言ではないでしょう。

もちろん、中京区、上京区、南区、その他様々な地域が京都市の経済に貢献していることは言うまでもありません。

さて、四条烏丸の交差点から南西に5分ほど歩いた「仏光寺通烏丸西入る」に江戸時代の文化人の与謝蕪村の邸宅跡の石碑があります。

ビジネス街でも、こういった史跡に巡り会えるのが京都の良いところであります。

晩年を過ごした地

与謝蕪村の邸宅跡には、現在、啓明商事株式会社の建物が建っています。

啓明商事株式会社の建物

啓明商事株式会社の建物

啓明商事は、着物を扱っている会社で、こちらの建物は同社が運営する「kimono*itoshiki」という店舗になります。

レンタルもできるということなので、京都に旅行で訪れた時に着物を借りて観光するのも良いですね。

啓明商事の建物の入り口付近に「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」と刻まれた石碑が立っています。

与謝蕪村宅跡(終焉の地)

与謝蕪村宅跡(終焉の地)

ここに江戸時代の俳人で画家であった与謝蕪村が住んでいたんですね。

着物屋さんになっていて、なんとなく安堵しましたよ。

与謝蕪村は、江戸で早野巴人(はやのはじん)に弟子入りし、俳諧を学びました。

その後、蕪村は、憧れていた松尾芭蕉が旅した道を自分もたどろうと、東北地方を周遊します。

旅の宿では、自分が描いた絵画を宿泊代として置いて行ったそうです。

蕪村が京都に住むようになったのは、寛延4年(1751年)のことで36歳でした。

3年ほど東山区の知恩院付近に居を構えていましたが、その後、丹後宮津の見性寺で画の勉強を始めます。

そして、42歳の時に再び京都に戻り、これまで谷口と名乗っていた性を与謝に改めて、画を売って生計を立てる決心をしました。

45歳頃に結婚、一人娘を儲け、京都市内で転居を繰り返して、最後の住居となる「仏光寺烏丸西入町」に移り住み、俳諧、絵画と様々な作品を世に生み出していきます。

与謝蕪村宅跡に立つ説明書によると、蕪村の幻の日記に以下のように記されているとのこと。

「安永三年十一月某日(蕪村五十九歳の時)近くの日吉神社の角を東へ曲がって仏光寺通り途中から南へ入って奥まったところに閑静の空家ありと、とも(妻)が見つけて、またその釘隠町へ身元保証の請状も通り、急に話がきまって三日前移転する。狭いながらに前より一間多く猫のひたいの庭に緑も少々あって、画絹ものびのびと拡げられる心地なり。我が家の前で露地は行き止まり、つきあたりに地蔵尊一体おわします。あしもとに濃みどりのりゅうのひげなど生い茂る。」

昭和36年(1961年)までここに路地があり、蕪村宅はその路地の一番南に位置していたそうです。

啓明商事が運営する「kimono*itoshiki」はネットショップもあり、そのドメイン名が「buson.shop-pro.jp」となっています。

「buson」は、おそらく与謝蕪村にちなむものなのでしょうね。

なかなか粋じゃないですか。

なお、与謝蕪村のお墓は左京区の金福寺にあります。

宿泊