江戸時代の豪商・尾州茶屋家の屋敷跡

京都市中京区の新町通蛸薬師下ルに白い壁の倉庫のような建物があります。

この辺りには、企業の建物が並んでいるので、おそらく、それらのひとつと思います。

その白壁の建物の近くに立札があるのに気づいたので、そこに何が書いてあるのか読んでみることにしました。

すると、この地は、江戸時代の京都の豪商・茶屋四郎次郎と茶屋新四郎の屋敷跡だったことがわりました。

立札だけとなっている豪商の屋敷跡

下の写真に写っているのが、茶屋四郎次郎の屋敷跡があった場所です。

茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡

茶屋四郎次郎・同新四郎屋敷跡

立札だけで、石碑がないのが少しばかり寂しいですね。

立札は百足屋町町内会公益社団法人南観音山保存会が設置したもので、茶屋四郎次郎とその屋敷跡の説明が簡単に書かれています。立札の最初の部分を引用します。

近世初頭、朱印船貿易商・糸割符商人として活躍、徳川家康の側近として政権確立に大きな役割をはたし、京都商人総筆頭として、角倉・後藤とともに京都三長者と称された茶屋四郎次郎清延の屋敷跡。

茶屋四郎次郎清延(ちゃやしろうじろうきよのぶ)は、明延の子です。

明延は、京都に住み、足利義輝が訪れて、よく茶を喫したことから茶屋の屋号を用いるようになりました。

茶屋家が発展したのは清延の頃で、彼は、朱印船貿易や糸割符商人(いとわっぷしょうにん)として活躍します。

朱印船貿易も糸割符制度も、海外との交易に関するものなので、茶屋四郎次郎清延は、現代でいうところの大手商社なのでしょう。

茶屋家は、徳川家康とも親交がありました。

清延の三男の新四郎長吉が初めて徳川家康に謁見したのは、天正14年(1586年)のことです。

新四郎長吉は、慶長19年(1614年)に家康の命で尾張徳川家に仕えることになり、尾州茶屋家(びしゅうちゃやけ)を創立します。

本家同様に幕府呉服師を拝命する一方、尾張藩主に近侍しその召福御用を勤めたとのこと。

また、尾州茶屋家は、ベトナムとの交易でも活躍し、名古屋や江戸に豪邸を有していました。

新町通蛸薬師下ルの屋敷は、新四郎長吉が徳川家康から譲り受けたもので、尾州茶屋家が明治4年(1871年)まで代々所有していたそうです。

現代でも、京都、名古屋、東京に豪邸を持つことは大富豪にしかできないでしょう。

江戸時代にその3ヶ所に屋敷を構えていた尾州茶屋家も、きっと庶民では想像できない大富豪だったのでしょうね。