嵯峨野の滝口寺にある新田義貞の首塚

延元2年(1337年)3月に新田義貞の嫡子の義顕と尊良親王(たかながしんのう)がたてこもる敦賀の金ヶ崎城が足利高経によって落とされました

金ヶ崎城には新田義貞もいたのですが、落城の1ヶ月前に脇屋義助と洞院実世(とういんさねよ)とともに杣山城(そまやまじょう)へ脱出しています。

足利軍は、捕えた恒良親王(つねながしんのう)から、義貞は自害して果てたと聞かされていたので、これで一安心と思っていました。

全国各地で一斉に挙兵

その年の初夏、足利高経は、越前を離れて京都へと戻りました。

完全に油断していた足利勢でしたが、手薄になった越前を新田義貞は攻撃しません。思うように兵を集めることができなかったからです。

ちょうどその頃、東北の北畠顕家が京都を目指して出陣することになっていたのですが、こちらもなかなか兵が集まらない状況でした。

新田義貞が戦死したという噂が東北まで伝わっており、南朝に味方しようという者が少なかったからです。

そこで、義貞は北畠顕家に自分は生きているという書状を送り、西に向かって進軍してほしいと伝えました。

そして、伊勢にいる北畠顕家の父の親房(ちかふさ)にも同様の書状を送りました。

さらに関東にいる二男の新田義興(にったよしおき)と兵庫にいる三男の義宗にも出陣を促しました。この時、義興は16歳、義宗は14歳でした。

北畠顕家が鎌倉にいる足利義詮(あしかがよしあきら)を攻撃すると、新田義興も旗揚げしました。

他にも鎌倉幕府の最後の執権北条高時の子の時行も南朝に味方して挙兵、九州でも同様に南朝に味方する者たちが起ちあがりました。

恒良親王と成良親王の死

京都では、花山院に恒良親王が幽閉されていました。

そして、後醍醐天皇の皇子の成良親王(なりながしんのう)も、光明天皇の皇太子を廃され、恒良親王とともに幽閉されることになりました。

後醍醐天皇が吉野に遷幸して、南朝を樹立したからです。

全国で一斉に南朝に味方する者たちが挙兵したことから、足利尊氏と弟の直義は、その背後に新田義貞がいることに勘付きます。

そして、義貞が自害したと嘘をついた恒良親王を、足利直義は暗殺しました。さらに成良親王も、その後間もない時期に暗殺されました。

鎌倉から京都へ進軍する北畠顕家

延元3年1月。

東北の北畠顕家は、新田義興とともに鎌倉を攻め落とした後、その勢いに任せて京都へと進軍します。

しかし、北陸は雪が積もり、新田義貞は上洛することができない状況。

このような状況で、北畠顕家の軍だけが西上したところで、足利軍に勝つことはできません。

案の定、北畠軍は、西と東から挟み撃ちにあって大打撃を受け、伊勢へと敗走することになりました。

新田義貞の戦死

3月になり、新田義興と顕家の弟の北畠顕信が、京都府八幡市の男山を占拠しました。

これに対して足利軍は、高師直(こうのもろなお)があたります。

この男山での攻防は3ヶ月以上も続きました。

その頃、北陸の新田義貞のもとに吉野の後醍醐天皇から綸旨(りんじ)が届きます。

そこには、男山を救援するためにすぐに上洛するようにという内容が書れていました。

そして、5月22日に北畠顕家が大阪の堺で戦死したことも義貞に知らされました。

義貞は、弟の脇屋義助を男山に向かわせ、自身は北陸にとどまり、足羽城の攻略を続けます。

夏の暑い日に朝も夜も戦い続けているため、兵の疲労は著しく、攻めても攻めても足羽城は落ちません。

加えて、すぐに攻略できるだろうと思っていた藤島城も、激しい抵抗に遭い、思ったような成果を上げることができませんでした。

そこで、義貞は、7月2日に自分も藤島城の攻略にあたることにします。

藤島城の激戦の知らせは、足利軍にも届いており、直ちに援軍が送り込まれました。

その足利の援軍と新田義貞軍が途中で鉢合わせとなり、戦いとなりました。

義貞は馬上で敵と戦っていましたが、泥田に馬の足がとられて落馬。

その時、敵の放った矢が頭に刺さり、戦死しました。

新田義貞の首塚

新田義貞の首は、すぐに足利高経のもとに届けられました。

高経は、その首が新田義貞のものであることを確認した後、京都へ送ります。

その時、書状に往生院で、葬儀を営むようにと書き記しました。

往生院は、右京区の嵯峨野にあったお寺で、現在は、滝口寺が建っています。

その滝口寺の境内には、今も新田義貞の首塚が残っています。

新田義貞の首塚

新田義貞の首塚

義貞の首塚の近くには、彼の妻の勾当内侍の供養塔もあります。

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