楠木正成の戦死を招いた清涼殿での坊門清忠の一言

建武3年(1336年)2月。

後醍醐天皇の軍に敗れた足利尊氏は九州へと落ちのびました。

これで、再び京都に平和が戻ってき、2月29日には延元と元号も改元されました。

しかし、この平和もほんの一時の間だけで、1ヶ月もすると足利方に味方する仁木頼章(にっきよりあき)が丹波で旗揚げ、播磨では倒幕のために後醍醐天皇に味方した赤松円心も白旗城を築城し朝廷に弓を引く構えを見せていました。

その他、中国地方でも多くの武士たちが、後醍醐天皇に反旗を翻しました。

新田義貞を九州に派遣

足利尊氏が九州で勢力を盛り返していることを知った朝廷は、新田義貞の出陣を決定します。

しかし、この頃、新田義貞はマラリアにかかっており、すぐには出陣できない状況でした。

それでも、新田義貞は、病気をおして、遅れはしたものの、足利尊氏を討伐するために九州へと向けて出陣します。

新田義貞の軍勢は6万ほど。

これに驚いた播磨の白旗城にたてこもる赤松円心は、自分は鎌倉幕府の倒幕のために後醍醐天皇に味方したけど、あまりに恩賞が少なかったので、一時的に反旗を翻しただけで、本当は戦う意思はないと義貞に告げました。

そして、播磨の守護職に任じてもらえれば、味方するつもりでいるから、京都の後醍醐天皇にその旨を伝えてほしいと懇願します。

これを聞いた新田義貞は、すぐに京都に使者を遣わし、赤松円心を播磨の守護職に任命するように訴え、後醍醐天皇もそれを承諾しました。

使者が播磨と京都を往復する間、約2週間。

なんと、赤松円心は、この間に白旗城に籠城するための準備をしており、後醍醐天皇に味方する気は全くなかったのです。

この赤松円心の時間稼ぎのせいで、新田義貞は九州まで軍勢を進めることができず、中国地方で足止めを食った後、兵庫まで退却することになりました。

楠木正成の出陣

5月中旬。

新田義貞が一向に足利尊氏を討伐できないことにいら立ち始めた公卿たちは、楠木正成を御所の清涼殿に呼び出し、援軍として兵庫へ出陣するように促します。

京都御所の清涼殿

京都御所の清涼殿

しかし、楠木正成は、兵庫で足利軍と戦っても勝ち目はないので、一旦、新田義貞を京都に呼び戻すことを進言します。

そして、後醍醐天皇には、一時的に都を離れて比叡山に移動してもらい、足利軍を京都市街に誘い入れる作戦を提案しました。

足利の大軍が京都市街に入った後、京都へと通じる街道を封鎖し、物流を断ってしまえば、足利軍は食糧を得ることができず、自滅するに違いないというのが、楠木正成の狙いです。

1月の戦いでも、楠木正成は同じ作戦で足利尊氏を京都から追い出しているので、今度もうまくいくはずと誰もが思いました。

ところが、これに異を唱えた公卿がいました。

それは坊門清忠(ぼうもんきよただ)です。

何度も天皇が都を離れるようなことがあってはならないというのがその理由です。

坊門清忠の言葉には合理性はないのですが、他の公卿たちも都を離れたくないと思っており、その気持ちは後醍醐天皇も同じです。

結局、楠木正成の作戦は採用されず、5月21日にわずかな軍勢を率いて兵庫へと出陣しました。

湊川の戦い

足利軍は、海から尊氏、陸から弟の直義が東上してきます。

これに対して、新田義貞は瀬戸内海に近い小松原に布陣、楠木正成はそれより北の会下山(えげさん)に陣を構えてました。

5月25日。

兵庫の湊川で、両軍はぶつかりました。

楠木正成は、陸から攻めてくる足利直義軍に総攻撃を仕掛けます。

一方、海から上陸を試みる足利尊氏は、新田義貞が陣を敷く小松原よりもさらに東の海岸へと向かって船を進めました。

このままでは、西の足利直義の軍勢と東に上陸する足利尊氏の軍勢の挟み撃ちにあうと危険を感じた新田義貞は、東へと兵を引き上げ、挟み撃ちを回避し、戦線から離脱します。

湊川に残された楠木正成は、弟の正季(まさすえ)と数十人の家臣とともにお堂の中へと入っていき、自害して果てました。

「七度び人間と生まれて朝敵を滅ぼさむ」

正成は自害する時、そういったと伝えられています。

通説では、湊川の戦いで新田義貞は、楠木正成を見捨てて逃げたということになっています。

これについては、山岡荘八が、新太平記の中で、楠木正成は新田義貞を逃がすためにおとりになったのだと反論し、新田義貞は、正成を見捨てたのではなく、彼の作戦に従い京都へと引き上げたのだと主張しています。

新田義貞は鎌倉幕府を滅ぼした名将なので、足利軍の挟み撃ちを恐れるあまり、楠木正成を見捨てて逃げたというのは、違うのかもしれませんね。

なお、京都御所の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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