京都市右京区の嵯峨野に小倉あん発祥の由来と書かれた説明書が立っている畑があります。
その畑の近くには、いつごろ置かれたものなのかわかりませんが、土佐四天王と呼ばれる4人の像が並んでいます。
幕末の土佐藩士
下の写真に写っているのが、土佐四天王と呼ばれる4人の像です。
彼らの名は、左から吉村寅太郎、武市瑞山(たけちずいざん/半平太)、坂本竜馬、中岡慎太郎で、幕末、明治維新に貢献した人物とされています。
近くの説明書には、「ここ嵯峨野でも彼ら情熱ある志士たちは、藩を越え新しい日本を夢見て東奔西走していた。ここに偉大なる英傑たちの業績をたたえ後世に伝えるべく銅像を建立する。」と刻まれています。
ところで、彼らは一体どのような功績をのこしたのでしょうか。
吉村寅太郎
吉村寅太郎は天保8年(1837年)に生まれました。
吉村は、文久元年(1861年)に武市瑞山が結成した土佐勤王党に加盟します。
翌年、土佐藩を脱藩し、上洛するも寺田屋事件が起こり土佐へ送還。
同3年に藩の許可を得て、再び上洛します。
そして、松本奎堂らとともに明治天皇の従兄弟の中山忠光を擁立して天誅組を結成します。
この頃、長州藩を中心に孝明天皇の大和行幸が計画され、一気に倒幕へと突き進もうとしていました。
それに先駆けて、吉村ら天誅組は大和の五条代官所を襲撃し、代官の鈴木源内を討ち取りました。
その後も十津川郷士たちを味方につけ、幕府側と戦いましたが、1カ月ほどで天誅組は壊滅し、吉村も戦死しました。
この事件は天誅組の変といい、明治維新の導火線となったと評価されています。
武市瑞山
武市瑞山は、文政12年(1829年)に生まれました。武市半平太とも呼ばれています。
文久元年に土佐勤王等を結成し、土佐藩の藩論を天皇を敬い外国人を日本から追い出そうという尊王攘夷(そんのうじょうい)に変えるために活躍します。
翌年、土佐勤王等とは真逆の考え方を持つ参政の吉田東洋を同志の那須信吾らに暗殺させます。
その後、武市は土佐勤王党とともに京都で尊王攘夷の思想のもと、政治活動を行いますが、世論が朝廷と幕府が協力し合い国難を乗り切ろうという公武合体に変わったため、文久3年に失脚し、土佐で投獄されます。
そして、2年近くの獄中生活の後、切腹し、この世を去りました。彼の切腹は、腹を三文字に切る見事なものだったと伝えられています。
坂本竜馬と中岡慎太郎
坂本竜馬は天保6年(1836年)生まれ、中岡慎太郎は天保9年生まれです。
2人の功績と言えば、慶応2年の薩長同盟の締結を成功させたことでしょう。
これまで仲の悪かった薩摩藩と長州藩の間に入り、両者を結びつけたことは、明治維新に大きく貢献したと言えます。
また、坂本竜馬は、慶応3年に幕府が朝廷に政権を返上する大政奉還の実現にも貢献しました。
しかし、坂本も中岡も大政奉還の実現直後、近江屋で暗殺されました。
以上、簡単に4人の功績を紹介しました。
彼らは、志半ばで亡くなってしまいましたが、明治維新のために重要な働きをしたと考えられています。
美化されている吉村寅太郎と武市瑞山
土佐四天王が明治維新にとって重要な働きをしたというのが通説となっていますが、必ずしもそうではなかったという考え方もあります。
特に吉村寅太郎と武市瑞山については、評価が分かれるところです。
天誅組の暴挙
吉村寅太郎が天誅組とともに五条代官所を襲撃したのは、文久3年8月17日のことです。
この時、殺害された代官鈴木源内は、天誅組に同情的だったとされています。また、鈴木源内は、悪代官ということでもありませんでした。
天誅組の行為は、現代でいうと交番のお巡りさんをいきなり襲撃したのと同じです。
五条代官所の襲撃の翌日の8月18日。
長州藩が京都から追放される政変が起こりました。
この時点で孝明天皇の大和行幸は中止となり、天誅組は、天皇とは全く無関係の組織となります。
それにも関わらず吉村たち天誅組は、自分たちを天皇の先兵だと偽り、十津川郷士たちを味方に引き入れました。
最終的に彼らの嘘は十津川郷士たちの知るところとなり、天誅組の仲間は次第に減り、幕府側についた諸藩に鎮圧されます。
吉村も仲間から裏切られ、民家に隠れているところを津藩兵に見つかり射殺されました。
天誅組の変以降、倒幕の動きが加速するということは、特にありませんでした。
同志を見捨てた武市瑞山
土佐勤王党の首領の武市瑞山は、吉田東洋の暗殺に見られるように政敵を次から次に排除していきました。
彼の暗殺計画を実行したのが、人斬り以蔵と呼ばれていた岡田以蔵です。
岡田は、京都で武市にとって邪魔な者を何人も斬りました。
その岡田も武市が投獄された後、京都町奉行所に捕えられます。
そして、お仕置きを受けて奉行所から出てきたところを土佐藩士に捕まり、土佐に送還され牢屋に入れられました。
岡田が捕まったことを知った武市は、妻あてに獄中から送った手紙の中で「岡田以蔵が死んでくれればよかったのに」と書いたそうです。岡田が、吉田東洋暗殺などの悪事を全て白状するのを恐れたからです。
ちなみに武市は、岡田を毒殺しようとしましたが、失敗しています。
武市の投獄中、彼を慕う清岡道之助ら23人が行動を起こし、武市の解放を土佐藩に要求する野根山事件が起こります。
最終的に23人は、全員打ち首となってしまいましたが、この時も武市は迷惑なことをしてくれたと言ったそうです。
結局、岡田以蔵や同志の藤松駿馬などの自白により、武市の罪が明らかになりましたが、彼は一切その罪を認めず、切腹しました。
彼は三文字に腹を切ったとされていますが、介錯人が脇腹を刺していることから、実は自分で腹を切れなかったのかもしれません。
早乙女貢の小説「若き獅子たち」の中では、勤王の志士たちが批判的に描かれています。
吉村寅太郎と武市瑞山についても、酷評されています。
彼らは明治維新の功労者だったのか、それとも単なるテロリストだったのか。
少なくとも鈴木源内など、無実の人々が彼らに殺害されたことは事実ですね。