三条河原にさらされた足利将軍の木像の首

前回の記事では、室町幕府の史跡が質素だということを紹介しました。

その理由は、長い間、足利尊氏が後醍醐天皇に刃向かった逆賊という評価を受けていたことによるのではないかと言われています。

足利尊氏は14世紀の人物であるのに、彼への偏見は戦時中まで続きました。

特に幕末には、天皇を敬う尊王思想が流行したことから、尊氏に対して強い批判がありました。

そして、その偏見は、足利将軍木造梟首(きょうしゅ)事件へと発展したのです。

等持院の歴代足利将軍の木造

事件が起こったのは、文久3年(1863年)2月22日です。

この日の夜、京都市北区の等持院(とうじいん)に10人ほどの浪士が押し入りました。

浪士達は、等持院のお坊さんに自分達は尊王の志士だと名乗ります。

この頃、京都では尊王の志士と名乗る者たちが、天誅と称してテロ事件を起こしたり、商家に押し入って金品を強奪したりしていました。

尊王の志士と聞いたお坊さんは、当然、自分も斬られるか、お金を奪われると思っていました。

ところが、浪士達の目的は天誅でも金品の強奪でもありませんでした。

浪士達は、お坊さんに歴代足利将軍の木造が置かれている場所に案内するように要求します。

等持院は、足利尊氏が創建した菩提寺で、現在、霊光殿という建物に歴代足利将軍の木造が安置されています。

等持院の霊光殿

等持院の霊光殿

お坊さんは、浪士達の要求通り、足利将軍の木造が安置されている場所に彼らを案内しました。

すると、浪士達はいきなり、初代将軍の尊氏、2代将軍の義詮(よしあきら)、3代将軍義満の木造の首を引き抜きました。

そして、3つの首を持って、等持院を立ち去ったのです。

木造の首は三条河原に

翌日、三条河原には3つの首がさらされていました。

尊王の志士と名乗る浪士達は、よく鴨川の河原に殺害した人々の首をさらしていたことから、町の人々は、今回もまた天誅の犠牲になった人の首がさらされていると思いました。

しかし、よく見てみるとその首は木造です。

そう、その首は、昨晩、等持院から持ち出された足利将軍の木造の首だったのです。

さらされた木造の首の近くには、尊氏、義詮、義満の3つの位牌と以下のようなことが書かれた看板も置かれていました。

「逆賊の足利将軍は朝廷を悩ましてきたので木造の首をはねた。最近も足利将軍以上に悪い者がいるが、旧悪を悔いて忠節を誓わなければ、大勢の有志が罪科をただすであろう。」

この看板の内容は、足利家以上に徳川家は朝廷に対して悪いことをしているから、成敗しなけらばならないというものです。

これを知った京都守護職の会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)は、、「足利家は朝廷から征夷大将軍に任命されており、徳川家もまた同じである。足利将軍の木造の首をさらすことは、幕府だけでなく朝廷をも侮辱する行為だ」と激怒し、京都町奉行所とともに直ちに犯人逮捕に動き出しました。

犯人は、三輪田綱一郎、宮和田勇太郎、師岡節斎、野呂久左衛門などですが、あろうことかその中には、会津藩出身の大庭恭平もいました。

一説によると大庭恭平は会津藩の密偵で、浪士達の動きを藩に知らせており、今回の事件も彼が通報したとも言われています。

その後、犯人たちは、逃げた者もいましたが、守護職と奉行所に捕えられました。

現在、等持院の霊光殿に安置されている尊氏、義詮、義満の3体の像には、しっかりと首が付いています。

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