京都市右京区の嵐山には、世界文化遺産に登録されている天龍寺があります。
天龍寺は、春と秋の観光シーズンになると多くの方が拝観に訪れる人気の観光名所ですが、実は8回も焼失しています。
現在の天龍寺は、明治時代に再建されたもので、最後に焼失したのは幕末のことです。
長州藩が京都に乱入
文久3年(1863年)8月18日に京都の政界でクーデターが起こり、長州藩とそれを支持した公卿7人が京都から追放されます。
長州藩としては、なんとかして京都政界に返り咲きたいと思っており、また、追放された7人の公卿の赦免も願っていました。
そこで、朝廷に7人の公卿の赦免を求めましたが、許しを得ることはできませんでした。
そんな状況の中、元治元年(1864年)6月に事件が起こります。
京都に潜伏していた長州系の浪士達が新撰組によって、池田屋で討ち取られてしまったのです。
池田屋事件の報告を受けた長州藩士達は激怒し、遂に藩を動かし兵を京都に向かわせます。
そして、伏見、山崎、天龍寺と3ヶ所に軍を配置し、京都に攻め入る体勢を整えたのです。
この長州藩の乱入に備えて、京都を守っていたのが、幕府、会津藩、薩摩藩でした。
長州藩を宿営させた天龍寺も処分
元治元年7月。
遂に両軍は、京都御所付近で戦闘を開始します。
この戦闘は、特に蛤御門付近で激しく行われたため、蛤御門の変と呼ばれています。
蛤御門に突入した長州藩の兵を率いていたのは、来島又兵衛。
そして、来島又兵衛が指揮していた長州藩兵が宿営していたのが天龍寺で、そのことが8回目の焼失の原因となります。
戦闘は、長州藩の惨敗で終結。
これで事態は収まったと思われたのですが、薩摩藩兵が天龍寺に向かいます。
その目的は、長州藩兵を宿営させた天龍寺の処分と長州藩兵の残党狩り。
薩摩藩兵を率いていた村田新八は、天龍寺に向かって大砲を撃つことを命じ、諸堂の大部分を焼き払いました。
蛤御門の変で、最も激しい戦闘をした来島又兵衛率いる長州藩兵を宿営させたことが、このような厳しい処分になったのかもしれませんね。
天龍寺の再建
幕末の動乱も収まり、江戸幕府が滅んで明治時代も後半になって、天龍寺の復興が行われます。
明治32年(1899年)には、蛤御門で焼失した法堂(はっとう)が再建され、庫裏(くり)も建立されました。
また、庭園の正面に建つ大方丈もこの時に建立されたものです。
以後、大正、昭和と多くの建物が建立されていき、現在の景観となっています。
天龍寺の庭園を眺めていると、争い事とは無縁のように思えますが、時代の動乱に巻き込まれ、8回の焼失を乗り越えてきた歴史の重みを感じずにはいられません。
なお、天龍寺については、以下のページを参考にしてみてください。