平治の乱の源義平と平重盛の一騎討ちの舞台・京都御所

毎年、春と秋に特別公開される京都御所は、雅な観光名所として人気があります。

しかし、京都御所は、今の雅なイメージからは想像できませんが、平安時代末期には、平治の乱の戦場となったことで知られています。

保元の乱後の不公平な恩賞

平治の乱は、平治元年(1159年)に勃発しますが、保元の乱(1156年)の後の不公平な恩賞が原因の一つとされます。

保元の乱は、後白河天皇と崇徳上皇との間の争いに源氏や平家の武士たちが参加した戦いでした。保元の乱については、下記の過去記事を参考にしてください。

この戦いで勝利したのは、後白河天皇で、源義朝と平清盛も天皇方に加わっていました。

特に義朝は、崇徳上皇についた父や弟達と戦い、天皇方で最も活躍したといってもいいでしょう。

一方の清盛の方もそれなりに味方の勝利に貢献はしましたが、義朝ほどは活躍していませんでした。

そして、乱後、いよいよ二人に恩賞が与えられることになります。

清盛は播磨守となり平家一門で4カ国を受領しました。

清盛が、これほどの恩賞をもらったのだから、義朝も期待せずにはいられません。

ところが、義朝には、大した恩賞は与えられませんでした。

義朝は、清盛よりも活躍したのに清盛よりも恩賞が少ないことに納得できません。

しかし、義朝よりも清盛の方が多くの恩賞を受領したことには理由がありました。

それは、恩賞を決める立場にあった信西(しんぜい)と清盛の仲が良かったからです。

つまり、清盛は、最初から功労に関係なく多くの恩賞を受領するようになっていたのです。

信西の権力に近付く藤原信頼

保元の乱後、権力を握った信西は、崇徳上皇についた者たちを次々に処刑し、自らの権力を大きなものとしていきました。

そんな信西の処分の残酷さに周囲が不快感を持つ中、彼に接近する人物がいました。

それは、藤原信頼です。

藤原信頼は、信西のおかげで順調に出世していきます。

信西に頼めば自らの出世は思いのままと考えた藤原信頼は、次に近衛大将になりたいと言い出します。

しかし、この頼みを信西は断ります。

頼みを断られた藤原信頼は、信西を恨み、何とかして彼を失脚させようと考えます。

そこで、藤原信頼は、保元の乱の恩賞に不満を持っている源義朝と手を組むことにしたのです。

平清盛の熊野詣で

信西の保元の乱の残酷な処分、恩賞の不公平、そして、藤原信頼の権力欲がひとつとなって、信西を排除しようという動きが水面下で起こります。

そんな時に、信西と深い関係にあった平清盛が熊野詣でに行くことになりました。

清盛が熊野に行けば、京都にいる信西派は無防備となります。

その隙をついて、反信西派は、平治元年(1159年)12月9日に三条殿を夜襲し、後白河上皇を一本御書所(いっぽんのごしょどころ)に、二条天皇を黒戸御所(くろどのごしょ)に幽閉します。

この動きに気付いた信西は、すでに逃亡していましたが、穴に埋まって隠れているところを追手に発見されて処刑されました。

このクーデターによって、藤原信頼は念願の近衛大将となり、権力を握ることになります。

清盛の帰京

京都でのクーデターを知った平清盛は、熊野からすぐに京都の六波羅に帰ります。

そして、幽閉されている後白河上皇と二条天皇を脱出させる計画を練りました。

12月25日、計画が実行されます。

まず、後白河上皇の脱出に成功し、仁和寺にかくまいます。

次に、大宮二条に火を放ち、藤原信頼方がそちらに気を取られている隙に二条天皇を女装させ、六波羅へ脱出させました。

この脱出は、後に二条天皇の六波羅御幸と言われることになります。

紫宸殿前の一騎討ち

後白河上皇と二条天皇を脱出させた平清盛は、藤原信頼と源義朝を討ち取るために京都御所に攻め込みます。

平家方は、清盛の嫡男の重盛が御所に突入。

源氏方は、義朝の嫡男の義平が迎え撃ちます。

そして、両者は、紫宸殿(ししんでん)の前で一騎討ちとなりました。

承明門越しに見た紫宸殿

承明門越しに見た紫宸殿

両者の一騎討ちは、7度行われ、義平が重盛を追い回したとされていますが、決着はつきませんでした。

源氏方は、何度も平家方を御所の外に追い出しますが、御所の中に平家と内通していた者がおり、御所を平家方に占拠されたため、遂に御所を出て、六波羅を攻めることにします。

しかし、源氏方は六条河原で敗れ、敗走しました。

この時、六条河原には、鵺(ぬえ)退治で知られる源頼政が陣を敷いていましたが、頼政は清盛に味方して、平家方の勝利に貢献しています。

その後、藤原信頼は、仁和寺の後白河上皇のもとに謝罪しに行きますが、結局、六条河原で処刑されました。

そして、藤原信頼とともに戦った源義朝は、尾張国に逃げますが、家臣の長田忠致(おさだただむね)の裏切りにあい、最期を遂げます。

嫡男の義平も平家方に捕えられ処刑されましたが、当時12歳だった源頼朝は、清盛の継母である池禅尼(いけのぜんに)の命乞いのおかげで伊豆への島流しですみました。

また、義朝の妻の常盤御前は、今若、乙若、牛若の3人の子とともに清盛のもとに出頭し、助命されますが、3人の子供は寺に入れられることになりました。

現在の京都御所は、元弘元年(1331年)から使われるようになったとされており、それ以前は今よりも西の方にありました。

なので、平治の乱で源義平と平重盛が一騎討ちをした場所とは異なっています。

なお、京都御所の詳細は以下のページを参考にしてみてください。

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