豊臣秀吉の城下町京都・御土居跡

京都は、山に囲まれた盆地で中心部は平たんとなっています。

そして、碁盤目状に通りが造られていることから、交通渋滞を無視すれば、移動がしやすい街と言えます。

しかし、安土桃山時代の京都は、周囲を壁で囲んだ城郭都市だったため、京都の内から外への移動は非常に不便でした。

壁で囲まれた範囲

京都が周囲を壁で囲まれた城郭都市だったということを知って驚かれた方も多いのではないでしょうか。

京都を囲んでいた壁は御土居(おどい)と呼ばれていましたが、現在ではほとんどが取り壊されています。

それでも、京都市内の随所に御土居の跡が残っています。

その代表が、北野天満宮の御土居です。

御土居の説明書き

御土居の説明書き

上の写真は、北野天満宮の境内にある御土居の説明書きです。

京都が城郭都市だったことを疑っていた方も上の写真を見て事実だと納得されましたよね。

上の写真の左側に御土居が造られた場所が示されています。

御土居は、その延長が22.5キロメートルにも及び、北は北山通あたりから南は東寺付近、東は鴨川のやや西の河原町通から西は西大路通までの範囲を囲んでいました。

下の地図だと北は京都北局付近、南は東寺付近、東は地下鉄京都市役所前駅、西はJR円町駅を線で結んだ範囲が概ね御土居が巡らされた範囲と一致します。

地図を上下左右に動かしたり、縮小したりしながら、御土居の範囲を確認してください。

豊臣秀吉の城下町だった京都

御土居は、天正19年(1591年)に豊臣秀吉によって造られました。

上から見下ろした御土居

上から見下ろした御土居

秀吉は、京都を城下町とするために天正13年に自らの住居として聚楽第(じゅらくてい/じゅらくだい)を建設します。

その後、天正18年に京都にあるお寺を一ヵ所に集中させるために寺町を造り、さらには、武家屋敷や町人地など身分ごとに居住区を設定して、抵抗勢力を生まないようにしたと考えられています。

そして、その翌年に都の防衛機能を高めるために御土居を築いたのです。

御土居築造の目的は、他にも鴨川の氾濫から京都を守るためだったともされています。

正面から見た御土居

正面から見た御土居

御土居は、地面を掘って堀を造り、掘り起こされた土を堀の周囲に盛って土塁としたものです。

堀には、川や池、沼も利用されたとか。

土塁の高さは、約5メートルあり、堀の深さを合わせると10メートルもの高さがありました。

秀吉が、京都を城下町として改造した理由はいろいろあるのでしょうが、自らの権力を誇示したかった部分もあったのではないでしょうか。

御土居のせいで分断された交通

京都の周囲に御土居が巡らされたことは、当時の人々の交通に大きな影響を与えました。

御土居ができたせいで、今まで自由に移動できた場所が行き止まりとなってしまい、目的地に行くためには、迂回しなければならなくなったからです。

もしも、現在も御土居が巡らされていたらどうなるかを考えてみましょう。

例えば、阪急電車に乗って、京都の河原町駅まで行ったとします。

目的は、鴨川の東にある南座で歌舞伎を鑑賞し、その後、四条河原町でお食事とショッピングをするためだったとしましょう。

まず、河原町駅を出て目の前にある四条通を東に5分ほど歩けば、南座に着くのですが、御土居のせいで四条通から鴨川を渡ることができません。

河原町駅から近くにある御土居の出口は、北へ1キロメートルほど歩いた三条大橋(粟田口)か南へ1キロメートルほど歩いた五条大橋(伏見口)です。

そうすると現在5分で行ける南座は、御土居があった場合、20分もかかることになります。

往復で約40分。無駄な時間ですね。

また、御土居があった頃は、京都への入り口は7ヶ所しかなかったため、車で京都に入ると大渋滞は必至。

ただでさえ、京都の道路は渋滞しやすいので、御土居があったら、まず車は動かないでしょう。

それどころか、一度、京都に入ると出られなくなるかもしれませんね。

おそらく、当時の人々も御土居のせいで、交通の不便さを感じていたことでしょう。

そのためか、関ヶ原の合戦(1600年)の翌年には、河原町の御土居が壊され、四条通が解放されました。

その後も、御土居は壊され続け、現在ではほとんど残っていません。

現在残っている御土居のうち北野天満宮にある御土居では、2月から3月にたくさんの梅の花が咲き乱れます。

御土居は、京都の交通の面では人々に嫌われていましたが、現在では梅の名所として人々に親しまれているのというのは感慨深いですね。