平安時代後期、若干2歳にして即位した天皇がいました。
それは、近衛天皇です。
近衛天皇の父は鳥羽天皇で、兄に崇徳天皇がいます。
近衛天皇は、即位した年齢が幼かっただけでなく、17歳という若さでこの世を去っています。
崇徳天皇を押し退けて即位した近衛天皇
先ほども述べましたが、近衛天皇は、永治2年(1142年)に2歳という幼さで即位しました。
2歳という年齢で即位したことから、当然、近衛天皇は自らの意思とは無関係に即位したと考えられます。
では、先帝であった崇徳天皇が、自らの意思で近衛天皇に譲位したのでしょうか。
それも違います。
崇徳天皇を退位させたのは、その父である鳥羽上皇でした。
その後、崇徳天皇は上皇に、鳥羽上皇は法皇になります。
ところで、なぜ鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて幼い近衛天皇を即位させたのでしょうか。
崇徳天皇は、元永2年(1119年)に鳥羽天皇と待賢門院との間に生まれました。
そして、保安4年(1123年)に4歳という幼さで即位します。
幼くして即位したという点は、近衛天皇と同じです。
では、鳥羽天皇が崇徳天皇へ自ら譲位したのでしょうか。
それは違います。
鳥羽天皇は、父である白河上皇によって退位させられたのです。
白河上皇は、鳥羽天皇の妻である待賢門院を寵愛していました。つまり、白河上皇は、彼女の子である崇徳天皇を幼くして即位させたかったわけです。
また、白河上皇が、待賢門院を寵愛していたことから、崇徳天皇は鳥羽天皇の子ではなく、白河上皇の子であるという噂もありました。
当然、退位させられた鳥羽天皇はおもしろくありません。
そこで、十数年たった後、この恨みを晴らすために美福門院との間にできた近衛天皇を2歳で即位させ、崇徳天皇を退位させたのです。
この時、崇徳天皇は、23歳という若さで上皇となりました。
安楽壽院に眠る近衛天皇
崇徳天皇を押し退けて幼くして即位した近衛天皇でしたが、退位したのも17歳という若さでした。
近衛天皇は、もともと病弱で12歳の頃から目を患うなど、病に悩まされることが多かったそうです。
そして、久寿2年(1155年)に17歳でこの世を去り、鳥羽の極楽浄土である安楽壽院に埋葬されました。
安楽壽院の境内にある多宝塔が、近衛天皇安楽壽院陵(このえてんのうあんらくじゅいんのみささぎ)です。
安楽壽院には、近衛天皇の父である鳥羽天皇も埋葬されています。
京都にある天皇陵は、鳥羽天皇安楽壽院陵のような外観をしているものが多いのですが、近衛天皇の陵は、立派に造られていますね。こういった天皇陵は、京都では珍しいのではないでしょうか。
近衛天皇の崩御と保元の乱
近衛天皇の崩御は、後の保元の乱(1156年)のきっかけとなります。
先帝の崇徳上皇の子には、重仁親王(しげひとしんのう)がいました。
本来なら、帝位は、崇徳上皇から重仁親王にうつるのが、通常なのですが、先述の通り鳥羽法皇によって近衛天皇が即位します。
帝位につけなかった重仁親王は、美福門院の養子となり、近衛天皇に後継者がなかった場合に即位する予定となっていました。
そして、近衛天皇は後継者なく崩御したので、当然、重仁親王が即位するはずでした。
しかし、即位したのは、崇徳天皇の弟の後白河天皇だったのです。
では、なぜ順番を無視して、突如、後白河天皇が即位することとなったのでしょうか。
それは、近衛天皇は藤原頼長の呪詛によって体を壊し、亡くなったという噂が広まったためです。
呪詛の内容は、愛宕山の天狗像の両目に釘を打ち込み、近衛天皇を呪ったというもの。
しかも、その呪詛には崇徳上皇も関係したとされたのです。
この噂は鳥羽法皇の耳にも届きます。
当然、鳥羽法皇は怒り、重仁親王の即位を認めず、後白河天皇を即位させたのです。
これが原因となり、崇徳上皇方と後白河天皇方とが争う保元の乱が起こり、やがて政権が貴族から武家に移って行くことになるわけですね。