武力討幕を謀った小御所会議

先日、京都御所の特別公開に行った時に、御所内の中央よりやや南に建つ小御所を観てきました。

小御所は、主に皇太子の元服式や立太子礼に使用されたり、幕府の使者や大名の拝謁に使用された建物です。

小御所の前には、大きな池のある御池庭が造られており、小御所の中から眺められるようになっています。きっと、昔の人は小御所から風情ある御池庭を観て楽しんでいたのでしょう。

そんな風流なことをイメージしながら、特別公開の時は小御所を拝観していたのですが、歴史的には小御所は時代を動かす重要な会議が行われたことで有名です。

王政復古の大号令が発せられた夜の小御所会議

慶応3年(1867年)10月13日に二条城で大政奉還が発表されました。

それは、15代将軍の徳川慶喜が政権を朝廷に返上することを諸侯に公表したものです。

これを受けて12月9日に明治天皇が、小御所の北隣に建つ御学問所で昔のように天皇を中心とした政治をこれからは行っていくことを宣言する王政復古の大号令を発布。

王政復古の大号令が発布された御学問所

王政復古の大号令が発布された御学問所

そして、その夜に小御所で会議が行われました。

小御所会議には、公家の岩倉具視、薩摩藩の島津茂久と大久保一蔵(のちの利通)、土佐藩の山内容堂と後藤象二郎など、公家や大名たちが出席しましたが、将軍の徳川慶喜は出席していませんでした。

そして、徳川慶喜が出席していない小御所会議において、慶喜の官位(内大臣)の辞職と所有している領地を返上させる辞官納地を決定しようとします。

これに噛みついたのが、土佐の山内容堂でした。

容堂は、会議の前に酒を飲んで酔っていましたが、理路整然と話を始めます。

その内容は、王政復古は慶喜が大政奉還を決定したから成り立ったのに、諸藩が領地を返上せず徳川家だけが領地を返上するのはおかしいというもの。

慶喜が辞官納地を断ることを予測し、それを理由に天皇に刃向かったとして武力討幕しようと画策していた岩倉と大久保は、一時沈黙します。

しかし、その後、容堂が「まだガキの天皇を騙して政権をほしいままにしようとするとは許せん」といった内容の言葉を発したため、岩倉が「天皇陛下に向かってガキとは無礼だぞ」と叱ったため、それ以降は何も言えなくなり、慶喜の辞官納地が決定されました。

徳川慶喜の辞官納地が決まった会議が行われた小御所

徳川慶喜の辞官納地が決まった会議が行われた小御所

そして、年が明けて正月3日に幕府軍と新政府軍との間で鳥羽伏見の戦いが起こり、幕府軍が敗れます。

京都御所には華やかなイメージがありますが、その華やかさの裏には小御所会議のような謀略を用いて時代を動かした歴史があるんですね。

大政奉還から鳥羽伏見の戦いまでの流れについては、「シニアの挑戦」さんの大政奉還<政争の今昔物語>の記事でわかりやすくまとめてありますね。こちらもご覧になってみてください。

2014年7月5日追記:上記ブログは閉鎖しています。

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