新撰組最後の屯所

江戸幕府末期、当時の政局は京都で動いていました。

開国か攘夷(外国人を追い払うこと)か。勤王(天皇中心)か佐幕(江戸幕府中心)か。

そんな時代に京都の治安にあたったのが新撰組でした。

新撰組の屯所として有名なのは結成当時の壬生の八木邸ですが、その後、西本願寺に移り、最後の屯所となったのは不動堂村です。

わずか半年間だけの屯所

慶応3年(1867年)6月15日に新撰組は、それまでの屯所であった西本願寺から不動堂村に移りました。

不動堂村は、現在の京都駅烏丸口から西に約5分ほど歩いた場所です。

新撰組が、西本願寺に屯所を構えていた時、境内で大砲や鉄砲の訓練をしていたことから、西本願寺としてもずいぶん困っていたようです。

そのようなことから不動堂村の屯所を西本願寺の方で世話をしたわけです。

この不動堂村の屯所はかなり広く、表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、客間、幹部や隊士の部屋、大浴場などがあり、その広さは1万?もあったということです。

もともと新撰組は、会津藩預かりではありましたが、単なる浪士の集まり。

そんな浪士の集まりにこれだけの屯所を与えたのは、局長の近藤勇(こんどういさみ)ら隊士が、屯所の移転前に、幕府から直参に取り立てられていたことと関係があったのでしょう。

しかし、この屯所はわずか半年間しか使われることはありませんでした。

慶応3年10月、大政奉還により江戸幕府が政権を朝廷に返上したことで、時代が動きます。

翌年の1月に鳥羽伏見の戦いが起こるのですが、その戦いに備えるために、新撰組は、12月14日に不動堂村から伏見奉行所に移りました。

不動堂村を屯所とした期間は、たったの6カ月でしたが、その間に大政奉還、坂本竜馬暗殺、新撰組を離脱した伊東甲子太郎(いとうかしたろう)暗殺とその後の新撰組の運命を左右する出来事が起こっています。これらの出来事については、またの機会に紹介したいと思います。

3つの不動堂村屯所跡

新撰組の最後の屯所は不動堂村にあったわけですが、実際のところ、正確な場所はわかっていないようです。

現在、不動堂村屯所跡と言われる場所は3ヶ所あります。

ひとつは、ホテル瑞鳳閣が建っているあたり。

もうひとつは、リーガロイヤルホテル京都が建っているあたりです。

そして3つ目は、不動堂明王院のあるあたりです。

一番大々的に不動堂村屯所跡とされているのは、リーガロイヤルホテル京都の方ですが、「歴史とはずがたり」さんの新選組不動堂村屯所跡の記事では、ホテル瑞鳳閣の方が最後の屯所ではないかと書かれています。

ホテル瑞鳳閣の敷地にある新撰組不動堂村屯所跡の碑

ホテル瑞鳳閣の敷地にある新撰組不動堂村屯所跡の碑

その理由として、ホテル瑞鳳閣のあるあたりは南不動堂町という地名であり、塩小路通を挟んで北側に北不動堂町という地名が残っているからとのこと。

確かにこの意見には説得力がありますね。

また、「ぶらりぶらり見て歩記」さんの以下の記事でも3つの新撰組不動堂村屯所跡の写真が紹介されていますので、ご覧になってみてください。

明治維新のことなのに、詳しいことがわからない。そこに歴史の奥深さがありますね。

2011年1月12日追記

この記事を書いた4日後にホテル瑞鳳閣に新しい石碑が置かれました。

写真は以下の記事に掲載しています。

その他の新選組屯所

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