武家政治の確立と終焉の地・鳥羽

これまで3回にわたって鳥羽にある名所旧跡を紹介してきましたが、今回は鳥羽の歴史について書いてみようと思います。

鳥羽が歴史に登場するのは、鳥羽離宮の造営の他に武家政治に影響を与えた2つの有名な事件があります。

武家政治への反逆・承久の乱

まず一つ目の武家政治に影響を与えた事件は承久3年(1221年)に起こった承久の乱です。

この乱を起こしたのは、文武に優れ、叡智傑出した人物と言われる後鳥羽上皇です。

当時は、源平合戦が終了し鎌倉幕府が政治を行っていた時代で、これに納得できない後鳥羽上皇が乱を起こしたわけです。また、上皇が女房の伊賀局(いがのつぼね)に与えた摂津の国に地頭が置かれ、年貢が上皇のもとに来なくなったことなど、鎌倉幕府のせいで上皇の所有する荘園からの収入が減ってしまったことも原因と言われます。

そこで、遂に鬱憤のたまった上皇が決起するわけです。

承久3年5月14日に流鏑馬(やぶさめ)を行うという理由で城南宮に上皇の傭兵集団であった西面の武士を集め、翌日に守護の伊賀光季を討ち取り、時の執権・北条義時追討の院宣を発したのです。

これに対抗して、鎌倉幕府も北条泰時が京に攻め入り、わずか1ヶ月程度で乱を鎮圧してしまいました。

乱の首謀者であった後鳥羽上皇は隠岐の島へ、その子・土御門上皇は土佐へ、順徳上皇は佐渡へそれぞれ流され、乱は終結します。これに伴い、西面の武士も廃止されました。

この承久の乱によって鎌倉幕府の力が強まり、武家政治が確立したとされます。

江戸幕府終幕・鳥羽伏見の戦い

承久の乱から約650年後、明治維新によって江戸幕府が終わります。

江戸幕府が終わったのは、慶応3年(1867年)の大政奉還の時とされています。また、翌年の江戸城無血開城や明治2年(1869年)の函館戦争終結をもって江戸幕府が終わったとも言われます。

しかし、大政奉還のときには、形式的に政権が新政府に移転しただけで、江戸幕府の力は以前のままだったわけですから、この時を江戸幕府の終わりとは言い切れない気がします。

逆に函館戦争がはじまった時には、幕府軍に余力は残っていなかったので、すでに江戸幕府は終わっていたのではないでしょうか?

そうすると江戸幕府はいつ終わったのでしょうか?

それは、慶応4年1月の鳥羽伏見の戦いで幕府軍が新政府軍に敗れた時ではないでしょうか。

数の上では勝っていた幕府軍でしたが、近代兵器を装備した新政府軍の前には、太刀打ちできず、大阪城まで敗走しました。

特に、城南宮や鳥羽離宮跡公園のあたりは激戦地だったようです。

鳥羽伏見の戦いの激戦地となった付近。今は鳥羽離宮跡公園となっている。

鳥羽伏見の戦いの激戦地となった付近。今は鳥羽離宮跡公園となっている。

鳥羽伏見の戦い以降は、徳川慶喜の大阪城からの夜逃げ、江戸城無血開城、会津戦争、函館戦争と幕府軍は敗戦を重ねていったわけです。

だから、最初の武力衝突となった鳥羽伏見の戦いでの幕府軍の敗戦が事実上の江戸幕府の終わりだと考えられるわけなんですね。

そして、これによって武家政治も終焉を迎えたのです。

武家政治の確立の地も武家政治終焉の地も鳥羽であったというのは何か運命的なものを感じませんか?

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